『陽のあたる場所』
2.高柳 明 (たかやなぎ とおる)
日野という男は珍しい。
「む、黒傘くんはいないのかね?」
まるで自分の大学内であるかのように勝手を知っている日野(他校生)は、ごく普通に教室に入ってきた。
そして特に俺や山本が注意するわけではない。
「いく君ならまだ教室じゃないかな?
今週末までの課題、まだ終わってないって言ってたから」
俺の斜め前でそう返答したのは、市岐と同じ学科である友香だった。
女性誌をめくりながら棒キャンディを口の中で転がしている。
「ふむ、そうかい。先週からずっと休みっぱなしだったよだからね。
しかしここで根を詰めても、また不調にならないかと僕は懸念するよ。
山本は?」
「山本は今日はバイトでとっくに帰ったよ」
「お守がいないというわけだな」
山本と市岐はほとんどの時間を近くで過ごしているように見えるが、実はそれほど長い時間を一緒に居るわけではない。学科も違うから当然授業も被らないし、活動時間の量も全く違うので二人の時間が被るのは、もしかしたら俺や日野よりも少ないのではないかと思えた。
それでも「一緒に居る」という印象が強いのは、その僅かな時間を過ごすときの二人の雰囲気なんだろうなと思う。
友香の返答に頷くと、日野は教室を出て行った。
日野という男は、市岐の周りに居る人間の中では飛びぬけて異質である。
俺が知る限り、市岐はどちらかというと「大人しい人間」であり(これを周りの人間に話すと「そんなわけはない」と言われるのだが)、他者に対して激しく拒絶することが無い。
寛容とか、諦観とか、そういう単語がしっくりとくる人間だと思っている。
しかし、ことこの日野という男に対して、市岐の反応は著しく動いた。
あの市岐に、「来るな寄るな散れ!!」とまで言わしめたのだ。
二人が出会った当初を知らない俺は、他人に対してそんな言葉を投げる市岐に対して心底驚いたものだった。まるで彼の家に居る2匹の猫のように、毛を逆立てて警戒していたのだ。
何故、市岐がそこまでの反応を見せたのかは、山本でさえも知らないことだった。
だがそれも市岐の寛容性と、日野の超マイペースかつ執着心とある意味での明朗性が結びついたのか、今となっては二人で仲良くじゃがりこを食べている光景を見るくらいになっている。
正直、俺は親友にさえ話せない事情で拒絶をした相手とお菓子を食べれるようになれる自信はない。日野に全く悪意が無いとしてもだ。
そこが俺が市岐を尊敬するところで、同時に危惧するところでもあった。
それでも日野に対して手と足と口が出ることは変わっていないので、やはり日野は市岐にとって特殊な立ち位置に居る人物なんだろう。
「…様子見てくる」
教室を出て行った日野を追って席を立つと、友香が「いってらー」と手を振った。
日野に悪意は無い、全く無い。彼にあるのは純粋な好奇心と羨ましいくらいの明後日に真っ直ぐな善意だ。
しかしそれが、他人から見てもそうだとは限らない。
春先の夕暮れが迫っていたためか、窓のカーテンは開け放たれていた。
教室の窓際の灯りの下で、市岐が机に突っ伏している。床には書き損じたらしい大量の半紙が散らばっており、突っ伏した腕の先には印がはまったままの印床が、押しやられるように置いてある。
その前の席には、先ほど教室を出て行った日野が、教室に置いてあったらしい書道会の会報を手に座っていた。
教室に入ってきた俺に気付いた日野が、無言で手を挙げる。
俺は口だけで「寝ているのか?」と問い、市岐を指した。俺の意図を汲んだのか、はたまたそれ自体が分からないのか、日野は首を傾げるように横に振った。
ひとまずは、日野が市岐にちょっかいを出しているようでは無いと分かったので、俺は安心する。決して日野が嫌いなわけでは無いので、彼が怒られなくてもいいところで市岐に拒まれるのを、あるいは市岐が人を拒むところを、俺はあんまり見たくないのだ。
俺は市岐の寛容に救われた人間なので。
「…市岐」
突っ伏している彼に近寄って、軽く肩を揺さぶる。
日野が起こさなかったのは寝ているからじゃないからかもしれない。友香もなのだが、ときにこの分野にいる人間は製作の途中で頭を抱えて突っ伏すことがあるらしい。
いつかも全紙の上で突っ伏していた市岐に声を掛けたことがあるが、その時顔を上げた彼の眼は潤んでいた。
「理想が高すぎるんだろうか」と目を拭う彼に、「高くない理想は理想と言わない」と返した覚えがある。
市岐が泣き虫であることは知っている。だがそれだけの理由ではない。
彼にとって、この筆と鏨と石は、それだけの意味を持っているということだ。
「高柳…?」
「寝てたのか?」
ゆっくりと頭を上げた市岐の目は、傍目に分かるくらい充血していた。頬が少し紅潮しているので、さっきの日野の言う通り熱をぶり返しているのかもしれない。
彼の学科が専門課程に入った時、友香が俺に驚いて言った。「いく君が篆刻に来るとは思わなかった。『絶対死ぬなよ?!』て教授が慌ててたよ」
この領域に関してよく分からない俺は、篆刻というものがどれほど体力勝負であるのかを知らない。けれど、そんな少ない知識でも、市岐は繊細な仮名書道へ進むと思っていたから、友香から報告を受けたときは俺も一緒に驚いた。
「いや、寝てはいなかったんだけど」
「そうだそうだ、せっかく僕が集中をしているところを控えていたのに、明はあっさりと声をかけてしまって」
「うん、ごめん」
ぷりぷりと唇を尖らせて不満を述べる日野に、俺は特に反論をする理由を見つけられなかったので謝った。
集中というか、行き詰っているというか、その中で必死に道を探っている途中であることは分かっていたのだが…
それでも、俺は市岐が身体を壊すことの方が重かったのだ。
「えっと…。何か用があった??」
声を掛けた理由を計りかねているらしい市岐が、印床を引き寄せて俺を見上げた。
どうやらまだ作業を続行するつもりのようだ。俺は彼の額に手を当てた。比較的周りの人間に同じことをされる市岐は、特に抵抗もなく当てられている。
「少し熱い気がする。作業は明日にした方がいいよ」
「あ、うん…」
ちらりと市岐の目が壁の時計に流れた。…ので、額に当てていた手の指で、びし、とデコピンをする。
いだ、と素直に声を上げる市岐は、弾かれた額をさすりながら"笑った"。
「…妥協が肝心、だな」
その笑顔は、彼が時折浮かべるものだった。
自分の力の限界を笑うときに浮かべるものだった。
「妥協は最終手段だろ。棄権の回避、だよ」
その笑顔は、俺が彼に自分自身のある告白をしようと決心したきっかけではあるのだが…
出来るならば、その笑顔でもって何かを諦めて欲しくもなかった。
そんな希望を込めて声を掛けてみると、市岐は「そうだな」と小さく笑った。
彼の言葉は自分には届いたのに、自分の言葉は彼の底に届くことは叶わないだろう。
この歯がゆさを、何と言えばいいだろうか。
山本がいてくれたらいいのに、と思った。
「起こしてくれてありがとな。日野も上着さんきゅ。
あー腹減ったなー、帰りにマック寄ってく人ー」
俺の肩をぽんぽんと叩いてから、突っ伏した背中に掛かっていた上着を日野に返して、市岐は大きく背伸びをして言った。
「おお、よいね!ストロベリチーズケーキのアレが食べたい」などと、日野が賛同する。
「高柳は?」
「うん?」
「もちろん行くよな」
「あぁ、うん…途中で倒れられても困るから」
「うむ、任せたよ!」
はっはっは、と同じ調子で市岐と日野に両側から肩を叩かれる。仲いいな。
篆刻の道具の片づけを手伝いながら、市岐の青白い横顔を見やった。
彼はどうしたら"笑える"のだろうか。
身体が許す限りは活発で不調でも冗談をかまし、無茶をしては人を笑わせようとする彼は。
俺にはどうしても、彼自身が"笑って"いるようには見えないのだ。
『そんなことないって』と笑って否定する目が心底必死であったことを、俺は気付いていたんだよ、市岐。
(了)
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