雨が降っていた。
晴雨兼用の日傘を開くと、僕の頭上は真っ白になった。
僕が紗希のところに来たのは結果的には僕にとって最大の幸福だったが、僕の意思ではない。。
僕を紗希のところへ連れて来たのは幾乃だ。
彼女は眠っている僕を紗希に押し付け、そして行方を暗ませたのだった。
この家で目覚めた僕の中には、『それ』があった。
「"あの夏"から、春兎は何をしていたのかね?」
「…何、を?」
窓の外から微かに雨の音が聞こえる。すぐに忘れてしまいそうなくらい微かな音だ。
ふわふわと浮かぶ紅茶の湯気をふーと追いやりながら、僕は目の前に座っている春兎に尋ねた。
「僕の"記憶"には、あれ以降の君の動向がないのだよ。あの後、君は『アレ』のそばにはいなかったろう?」
「ああ…うん。……そうか、君、過去が全て分かるわけじゃなくて"幾寅さんの記憶"しかないのか」
頷いて返した春兎の言葉に、僕は頷くことなく紅茶を一口含んだ。
目覚めた僕の頭の中には、『アレ』の記憶が詰め込められていた。
僕はこの家を知っていたし、彼のこれまでのクラスメイトを知っていたし、あの虚構の塔の一切合切も全て知っていた。『アレ』が目にしたことを全て持っていた。
そして僕が持っていたのは、"記憶"だけではなかった。
「僕は、特に何もしていなかったよ。単純に、藤本さんから引き離されただけで。
幾寅さんがいなくなった、て連絡を受けるまで、僕はずっと藤本さんの親戚の家で過ごしていた」
「ほぉ、藤本とは今も連絡をつけているのかね?」
浅草で再会した春兎は、今どき珍しい全寮制の学校にいるらしい。彼の赤毛から、随分とフリーダムな学校だと思ったら、あの赤毛は「鬘だよこれ」とすぽんと取って見せてくれた。
春兎と藤本は一緒に居るものだと思っていたのだが、当てが外れてしまった。まぁ問題はない。藤本と『アレ』は割と長いこと一緒に居たらしいので"記憶"は多い。
"あの夏"以降、藤本とのやりとりに今の僕には重要なものも無いと考えた。
春兎と藤本と『アレ』の話は、あのときに終っているのだ。
「最近はあんまり取れなくなっちゃった。連絡先は分かっているんだけど、本人を捕まえることが難しい」
「連絡先?」
僕の質問に、春兎は横に放置されていた新聞の上に指を突き立てた。
「ああ、この新聞社かね」
警察を止めた藤本が馴染み先なのか、新聞社で記事を書いていることを知っていた。
首を傾げながらその指を見て、その指の先の記事を見て、僕は思わず紅茶を噴き出しそうになった。
「例の事件を追っているよ」
春兎が指していたのは、『アレ』が関与していると思われる『記憶喪失』の記事だった。
いや、確かに、物凄く納得はいく。むしろここまで細々とであるが関連する記事が続いているのは、関係者が関わっているからだと思わない方がおかしい。
よもや、よく見る記事を知人が書いているとは思わなんだ。
僕はまさかの失態に熱くなる顔を片手で押えた。
「…つまりこれは……この記事を必要としている人間がいるってことでいいのかね?」
「そうだろうね…。例えば、君たちとか」
「智詩とか」
僕が付け加えると、春兎は眠たげな眼を少し開く。
「…智詩さんとは繋がっていないの?」
「現在、僕が属する側に居る市岐の人間は紗希だけなのだよ。市岐外でならもう少し増えるがね。
ということは、君は智詩とも連絡が取れていないということだな?」
「そう、智詩さんこそ行方が分からないよ。幾寅さんと同じくらいに…
僕は彼と幾寅さんが一緒にいるんじゃないかとも思っているんだけど…」
「いや、それはないな」
春兎の予測を僕はハッキリと否定した。春兎は今度は眉を寄せた。無理ない、だから僕は気にしない。
「…『アレ』は君が一緒に居た頃とは違って、誰かと行動できるほど『人』ではないのだよ。
そうだな、もし"一緒にいる"としたら、一方的に智詩が追いかけ回している形になっているだろう。つまり、僕たちと何ら変わりはないってことさ」
「………」
春兎は視線を落としてしまった。
僕が淹れた紅茶のティーカップを両手で包んで難しい顔をして考え込んでいる。
「君は何を知っているの?」
「なかなか良い質問だね、春兎。しかし僕が知り得ているのは『過去』とそこから推測される事柄でしか無いよ。いつかの誰かのように全てを見通すことは不可能だ。
僕は『人』なのでね」
ゆるりとティーカップを揺らした。
紅茶の色は透明で明るい赤になっている。レモンを入れたからだ。
「そういえば春兎、君は赤髪を被って何をしていたのかね?」
「…とても今さらな質問じゃない?」
「すまん、聞いていなかったなと思って」
「謝ること無いけど…幾寅さんを装って、誰が食いつくのか確かめてたよ。
僕には、誰が敵で誰が味方なのか分からなかったから…」
しっかりしろ藤本。
一歩間違えばここにはいなかった彼の発言を聞きながら、僕は心臓に冷や汗をかいた。僕程度の実力に押し倒されるというのに、何をやってきたんだこの少年は。
幸運にも程がある。
「二度とそんな真似はしてくれるな、春兎。もしどうしても必要と言うなら、僕を倒せるようになってからにしたまえよ。
食らいついてきたのは誰だったのかね?」
「もちろんそのつもりだけど…
市岐の人間と、それから"外"の人間だったよ」
「"外"…!それは攻撃されたのか?」
僕の小さな驚きに、春兎は頷いた。
考えていないわけでは無かった。正確には異なるが、"死"を扱う市岐は周りの魔法使い達からあまり良い印象を持たれていない。その市岐が妙な崩落をしたのだ。跡目と見れる者が歩いていたら声をかけることも想像に難くない。
難くないが、それは攻撃とは考えられなかった。それほど他の魔法使いたちは理性が無いはずがない。声を掛けた相手が『人』であればの話であるが。
春兎はやはり首を振った。
「事実確認だけだったよ、"外"の人たちは。僕が跡目ではないと分かると、幾寅さんの居場所を聞いていたけれどね。きっとそれも事情を聞くためだと思う。
問答無用で攻撃してくるのはどれも市岐の人間たちだったよ」
なんたる皮肉。今や…いや、今も昔も敵は身内にしかいない。
『アレ』が記憶を消して回っているのだ、向こうからしてみれば「そちらが先に手を出した」という言い分が成り立つとでも思っているのだろう。
「記憶を消されるというのは、そんなに恐ろしいことなのかな…?」
ぽつりと落とす春兎を、僕は軽く指を組んで見つめた。
「君は市岐の思想からは少し外れているからね、その怖さと言うのが分からないのかもしれないな。
春兎、君は『自分』というものを考えたことはあるかね?」
それは、僕が『目覚める』てからすぐ後に見た夢だった。
僕はあり得るはずの無い記憶と認識とを持ち物に、あの歪曲に閉鎖された虚構の塔で"彼ら"と論議を交わしていた。
僕がそのテーマを持ち出したのは、僕が『市岐』であることをしっかりと証拠づけた。認めたくないけど。認めたくないけどね。
自分の定義に彼は言った。「5次元目が必要である」
別の彼は言った。「君は僕である可能性もある」
そして彼女は言った。「知識、記憶、思考。それが私を定義する」
確たるものを前提に自分を定義する。それは誰もが同じ考えだった。もちろん、市岐もそれは同じだ。確たる自分により自分を定義する。
その一つが、記憶だ。そこに市岐は…少なくとも市岐の人々は拠り所を求めた。『自分』の定義は、他者を相対して認識し、自分が一人では無いことを把握できる。
しかし『自分』の定義は一方で、同時にどこまでも"一人"であることを認識させた。
一人、は、寂しい、のだ。
だから市岐は記憶を持ちより、共有した思い出の中で孤独になることを防いだ。
そうして、よりよい"解決策"を、本末転倒的に見出したのだった。
記憶を失うということは、その解決策から対象外となってしまうことを意味していた。
「……さっぱり分からない」
僕の『自分』の説明を聞いても、春兎は不機嫌とも取れるような表情で首を振った。
「それが正解だ、春兎。
だからこれ以上、君は市岐の思想に触れてはいけないのだよ」
「…ふうん?」
春兎は不思議そうに頷いて、「それじゃあ」と続けた。
「君は?」
春兎の質問に、僕は口の端を上げる。「知らなければよかったよ」
切実に。その認識が齎す、まるで不幸の手紙の回避策を失くしたような、救いの無い解答は。
「その回答だけで十分僕は知りたくなくなったよ」
「よかった。僕が身を呈して知った甲斐があったというものだ」
「なんだか色々突っ込みたいけど、ちょっとめんどくさくなってきたから流していい…?」
「その方が好都合だというのに解せん」
ぐだぐだしてきた空気で投げやりに返答し合っていると、ふと先ほど春兎が指し示した記事に目が向いた。とても小さな記事だ。
注目すべきは、その事件が都内であったことだ。
「…近いな」
「…近いね」
仕事から帰宅した紗希がぱたぱたと居間に入ってきて買って来たらしいケーキを出した。もう冷めかけてしまった紅茶を淹れ直して僕と春兎の会話に加わった時には、既に話題は梅雨時の洗濯になっていた。
なぜ『アレ』がこの時間を失くしてしまったのかを、僕は知っている。
知っているが、僕はあのうさぎにこうも評価されている。
「お前さんは嘘"は"つかない」
僕は『アレ』ではないので。
(なぜひかりをわすれたのか 了)
次は奴が来るよ
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