夜だ。
遠くで列車が鉄橋を渡る音が聞こえる。後は固いコンクリートを蹴る音と、耳元を通り過ぎる風の音しか聞こえない。
きっと耳を澄ませば、離れた町中の喧噪が聞こえただろう。
今夜、町は祭りだった。
-おしらせ:とうとうきました- (前編) 「お祭りに行きたいのだよ!」
僕は声高らかに要求してみた。
新聞を読んでいた山本と、朝食の食器を洗っていた紗希がきょとんと僕を見る。
5年前からずっと紗希が作り続けているクランベリーのジャムをめいっぱい塗ったパンをトースターでちょっと焼いてみた。温められて甘さの増した(ような)パンをじゃくじゃくと頬張りつつ、僕は続ける。
「夏と言ったらお祭りと思わないかね、今年は一足早く浅草の夜祭りが始まるらしいのだよ。
夜祭りと言ったらなにがあると思う、山本?」
「うーーんー??イカ焼きかなぁ??」
「他には?」
「じゃがばた?」
「他には?」
「あー……ビール」
「君はコンビニに行って来たまえ。
祭りと言ったらわたあめだろう!」
もぐもぐびしい、と指を突きつけて宣言すると、「人を指しちゃいけません」と指先をきゅっと握られてしまった。
もぐもぐを飲み下して僕は握られている手の中で指を動かしながら、
「ぜひわたあめが欲しいのだよ、山本」
「俺が買って来てやろうか?て話ではなさそうだな」
「もちろんだとも!僕はお祭りも大好きなのでね、わたあめを食べながら浅草寺の参道を歩く、いいね、実に素晴らしい。君はビールを飲めばいいさ、電車で行くのだ、問題なかろう」
「いいなーいいなー紗希も一緒に行きたいな~」
「む、何を言っているのだ、紗希ももちろん行くに決まっているだろう」
「紗希は今夜も明日も夜遅いのだよー。お祭りは今日だけなの?」
「………今日だけなのだよ」
しょんぼりと僕が返すと、「そっかー」と紗希は苦笑しながら僕の頭を撫でた。
「じゃあ紗希にはー、たこ焼きお願いね!代わりに春兎くんつけたげるよー☆」
すちゃ、と携帯を取り出し高確率で春兎にメールを送っているだろう紗希を見て、「ああ春兎、君は紗希の所有物になってしまったのだな」と思った。
紗希の所有物はそのまま僕の所有物でもあるので、おそらく春兎は僕の所有物でもあるのだろう。
いいものを貰ったな。
走る、"いつか"のように眼下に人はいない。しかし分かる、あいつが向かうのはあの場所だ。
桜から背を向けた、祭りの喧噪の届かない、ただ夜の沈黙に立ち尽くす廃倉庫。
「おい、灯、どうしたんだよ、どこ行くんだ??なあ、ハルト!えっちゃん!」
横をまるで歩くように並走する山本が戸惑いの声を上げる。彼には分からないのだろう。
同じく並走する春兎をちらりと見ると、僕の足の速度についていけないわけが無いのに、彼の呼吸はひどく乱れていた。
「…僕、先に行く。無駄かもしれないけれど、"張って"おくよ。
灯ちゃん、山本さんお願い」
「ハルト?」
そう言って春兎は速度を上げて走って行った。身が軽いのか、予想以上の速度だった。
「……誰かいるのか?」
山本が小さく呟いた。僕は流す。流すと言うことは、だいたいは肯定だ。
「なぁ、灯、誰がいるんだ?どうしてお前が追いかけるんだ?
灯!」
がっし、と山本が僕の肩を掴んで、自分の方へ向けさせる。
僕は山本を睨みあげた。その視線に、彼は「なぜだ」という色を浮かべる。
僕が黙っていることの理由は特にない。
"彼に話すことが嫌なのだ"。それだけだ。
数分前、僕と山本と春兎は浅草寺の参道にいた。いつも以上に人でごった返しており、僕は山本の手を掴んで店先を覗いていた。
それは春兎と一緒にあげまんじゅうが食べたいと言って店の前に並んでいたときだ。
不意に、恐ろしいほどの悪寒が背筋を走った。僕と春兎は同時に振り返り、"その色"を人ごみの中に探した。
市岐の"領域"は、開けば市岐同士でなら分かることがある。それは半分素質も関係しており、紗希はそれにプラスして訓練によって"領域"を感知することができ、春兎はもともと"領域"に関しての能力が高く、僕は"僕"故にその気配を感知できた。
いつかあの人外は言った、「全ての"市岐という現象"の基幹は、融即の理にある」と。"いつかの誰か"はその理をもって、市岐の人間の所在を把握していた。
今、それと同じものを僕と春兎は感じていたのだ。普通なら感知できないはずの"理"を、こうも禍々しく、冷たく、震えあがるほどの気配でもって。
僕は山本の手を振り払って駆け出した。僕の身長では人ごみに"その色"を見つけるのは難しい。
だが、アレが向かう場所を僕は知っていた。きっとそうだ。アレはあの場所に向かうだろう。
あの、夏の夜のむせ返る様な鉄の匂いを記憶に残す、川辺の
「…僕は、できるなら君にはここで待っていて欲しい」
僕は肩を掴んだ手にそっと手を重ねてお願いした。この先に待つものを、きっと彼は望んじゃいないだろう。
山本はじ、と僕の顔を見て、そうして首を振った。
「それは、"できない"よ。ごめんな」
僕はその答えに、握っていた拳を解いた。
そう言うと思ったんだ。
夜だ。月は雲の影に隠れている。
光源の届かない廃倉庫の中は真っ暗だ。先に向かっていた春兎が入口の横で中の様子を窺っており、追いついた僕らに、困っているような緊張しているような複雑な表情で頷く。
いるのだ。
「…エウブレウス」
「ルメンナールもヴィンクタスペンナも、一式まるっと"入ってる"ぜ」
いつも背負っているリュックからエウブレウスが静かに返す。僕は頷いた。今のアレにどれだけの効果を齎すのかは、分からないけれど。
「灯りが欲しいところだな」
「つけてもいいけど、持続できないから一瞬だよ」
「意味が無い、却下」
「眼つぶし的な」
「遮光眼鏡をかけていたらどうするんだ」
「夜にかけ…」
と、そのとき雲が晴れた。月の青白い光が廃倉庫の崩れた屋根から中に差し込み、
「!こらっ山本っ!!!」
照らされた中の人物を見た彼が、弾かれるように駆けこんで行ってしまった。
やはり駄目だったか、もうちょっと冷静に対応してくれると期待した僕が馬鹿だった。
舌打ちをして僕と春兎も山本を追いかける。
踏み入れた倉庫内の空気は驚くほどに冷たかった。その冷たさにか、それともその人物自体にか、何か踏み留まらされたように、山本が立ち尽くした。
その奥に、アレがいた。
月明かりに照らされた赤毛は冷たく反射し、病的な白さの上に乗せられた笑顔は明るすぎて、首から下げたケルティッククロスの赤がキラキラと光りを零して-
そして羽織っているパーカーの左袖が"はためいた"。
山本がくしゃりと顔を歪めた。
きっと僕も同じような顔をしているのだろう。だが、その心内はおそらく全くの逆方向を向いている。
左腕だけで"済んだ"と言うのか。
…化物め…っ
(つづくよ → おしらせ:とうとうきました 後)
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