幾寅の方でやることってのはこの間の卒論のであらかた終わっているはずなのですが、別途やりたいことが出てきてしまったのでこう…もしかしたらSSだけ5月以降も落とす形になるかもしれません。
『るらんどりーめらんこりっく』3
碁盤の升目というのがある。京都の町並みの配列とか。
整っているものはそれだけで力となる。あるいは、力の通しがよくなったり。
それだけで、結界の意味を持つ。
「…やっかいな」
じりじりと幾乃との距離を測っている僕は舌打ちする。
青い燐光を零す黒い傘を優雅とさえ思える雰囲気で佇む幾乃の周りには、升目の魔法陣が敷かれている。
その一つ一つに施されているのは。
「踏むなよお嬢ちゃん。4年間の集大成ってやつが詰まってるぜ」
「心配無用だ、エウブレウス。こちらとてその集大成を持っているよ。
連続起動はあるかね?」
あの升目の魔法陣は、5年前の夏に組み上げた物の縮小版というところだ。
主にトラップに使用し、このような対戦闘の主要手段としては用いない。戦闘魔法科であれば。
その思想と手段を知っていれば、戦闘魔法科の学生はこの魔法陣を補助的に使うだろう。
「あるぜ。どれがいい?
ジーラ、イグニ、ボナビランクス、…」
だが、今の相手は戦闘魔法科でもましてやソレンティアの学生でもない。
市岐の思想はあれど、魔法使いの思想は無い。
幾乃は僕がこの戦いを放棄しないことを知っている。
僕が幾乃に立ち向かっていかざるを得ないことを知っている。
それは紗希がヴィンクタスペンナに掛かっていること以外にも理由があり、その理由が図らずとも僕と合致していることを、彼女自身も知っている。
知っているのはそれだけだ。
だから、この魔法陣をこんな風に使う。
「…簡易遡及」
「それで」
僕はニヤリと笑った。
あの赤毛の"罠"にダブルで掛かっている…いや、掌で転がされているとは、実に腹立たしいので、あまりに腹立たしいので、表情筋が引きつったのだろう。
ハサミを使うのに道理は要らない。
マッチを使うのに思想は要らない。
万人全てには理は要らない。
「5回だ」
「よしきた」
僕とエウブレウスは呼吸を整えて、走った。
幾乃が眉を上げるのが見える。傘から燐光が零れる。あの傘が彼女の魔法発動のキーのようだ。あれを破壊する。
僕の足が一升目に足を踏み込んだ。
「1つ!」
僕の左足でジーラが発動、と同時にエウブレウスの簡易遡及が発動、発動され組み上がった魔法式が逆行、解体。
「2つ!」
僕の右足でヴィンテが発動、簡易遡及の発動、解体。
無表情な幾乃がやはり無表情に傘を盾のように僕に向け、くるりと軽く回す。
新たな魔法が展開されるという懸念はしたが、その気配はない。
「3つ!」
僕の左足でイグニが発動、簡易遡及の発動、解体。
発動された魔法式を遡及させるのは、その魔法式の構造を理解しておく必要がある。時間そのものを戻しているわけではない。組み上がる構成を逆再生しているだけだ。だからその魔法式の構造を理解していないと不可能であり、かつ幾乃の…今までに赤毛が作ってきた魔法具に汎用性は無い。汎用性が無いと言うことはユニークであり、ユニークなものに対して作られたこの簡易遡及魔法もまたユニークであると言うことだ。
それはどういうことか。
このためだけに作られたと言うことだ。
あの赤毛は5年前にそれを予期し、エウブレウスに詰め込んだということだ。
無効化された地面を思い切り踏みしめて、跳躍。再び靴に付与したクアリネジメントを発動させ、幾乃の傘を蹴り飛ばそうと、
「!灯っ、避けろ!!」
エウブレウスの悲鳴じみた警告に、僕はとっさにクアリネジメントを解除、身を捻って蹴り飛ばそうとした足の軌道を傘から外し、しかし、僅かにつま先が傘の表面を掠って、
その掠ったつま先が、凍った。
「よ、んっ、 ごっ ――っっ」
僕の並外れたバランス感覚を最大限発揮し、辛うじて転がるように升目の魔法陣から抜け出た。2回転、反射的に素早く体勢を直して幾乃に向き直る。
つま先の凍った靴を脱ぎ捨てて、僕はまるで何事も無かったかのように傘を差し直す幾乃を睨むように凝視した。
今の魔法を、僕は知らない。正確に言うならば、今の魔法の構成式を、僕は知らないのだ。
少なくとも、"幾寅"がその魔法式を組んだ"記憶は無い"。
「……それはどこの誰が組み上げたのかね」
「とある日の図書館で、と聞いたわ。
あのときあの場所にいたのは、エウブレウス…あなたと、梟のルーメペンナリアンと、私の弟と、少なくとも"後2人"、いたはずね?」
僕はもう片方の靴も脱ぎ捨てた。片方履いていて片方脱いでいるというのは動きにくいものだ。
「そのうち1人は魔法式など"お構いない"。であれば、残る1人しかいないわね」
幾乃のこの回答で、僕の幾乃を捩じ伏せる理由がもう一つ増えた。
「幾乃、僕のお願いを聞いてくれないか。今すぐその魔法陣を収めて僕の言うことを聞いてくれ」
「立てこもった犯人に"投降しなさい"と言っているようなものよ」
自分を犯人になぞらえる辺りになんとなく彼女の自覚が見える。
僕はこれから取る行動を数パターン用意してみたが、呼んでいる警察が到着するまでの時間を考えるとたった1つしか残らなかった。奇跡的な一手だ。
準備は大切だな、鬼面さん。
僕はリュックから輝石を一つ取り出して地面に転がし、リュックに差していた日傘を抜いた。更にその切っ先に付与しているビリアルを発動させ、輝石に突き立て、砕く。
そして僕は宣言した。「シレント」
瞬間、辺り数キロを覆った魔法陣の気配に、壁際にいた千羽だけが反応した。
青い燐光が弾けて紗希の緊縛が解け、遅れて、幾乃が足元の魔法陣が消えていることに気付いた。
これも同じ図書館で、別の鬼面の学生から幾寅が教わったことだ。
1、可能な限り、相手の土俵で戦うのは避ける。それから3、可能な限り、事前準備を行うこと。
つまり可能な限り事前準備を行って自分の土俵に持ち込むこと。
その事前準備の一つを、まさに今日、この池袋で行っていたわけだ。本当は対市岐用であり対幾乃用ではなかったので、あんまり使いたくなかったのだけれども。
妖精界の傭兵仕込みの体術を有する僕であれば、相手の魔法さえ封じ込めてしまえば後はほとんどボコ殴り一筋である。鬼面さんも言っていた、最終物理が一番、レベルを上げて殴る、と。
…最後のは言ってなかったかな。
「大人しく投降したまえ、幾乃。僕は女性を殴りたくは無いよ」
この一言は飾りだ。幾乃がこれ以上戦うことは無い。
彼女は目的を既に十分果たしている。
「…どういう、ことなの…幾乃ちゃん…」
心底訝しげな紗希がおそるおそる窺うように幾乃へ問いかける。
幾乃は差していた傘をゆっくりと畳んで、特に紗希に向き直るでもなく静かに答えた。
「……今見たことが全てだわ、紗希」
そんなこと言われても紗希が困る。
僕は困り顔の紗希を見てイライラと眼帯を掻きむしり、幾乃へ吠える。
「ちゃんとハッキリ言ったらどうかね!
これが人間界における魔法の一つの末路だと!
道理も思想も理も、魔法の根本要素を全く無視した単なる道具の一つとなった形だと!
今の戦闘など、たった一人の卒業生が及ぼす影響のほんの欠片に過ぎないと!」
たった一人の卒業生が残した魔法式の、たった一つが、数キロの規模で影響を及ぼす。
ソレンティアの卒業生はこの人間界にも決して多くは無いが存在する。壁際で依然静観している千羽だってその一人だ。
彼らがその気になればそれこそこの世界を転覆させることもできよう。
彼らには力があり、そしてそれだけの数がある。
だが、世界は今日も昨日と同じ日々を転がし続けている。平穏の限りではないが、それでもパワーバランスは危ういところで取れているはずだ。
それは彼らが、魔法学校で学んだ魔法の力に対する理性と知性を有しているからだ。自分たちが持つ力の影響を精神と知識で理解しているからだ。
だから、僕の言った魔法の一つの末路は、いまだ訪れていない。
「そして君らが追いかける幾寅と言う存在は、その"魔法の道具"になり得るとね」
最後の一言を、僕は幾乃ではなく紗希に向かって言ったのかもしれない。
紗希は悲痛な表情で胸元を掴んだ。あの赤毛が単なる魔力の詰めものだということは彼女も知っている。曲がりなりにも市岐跡目の花嫁だ。
道理も思想も理も無く、利用されるだけのモノとなる、ということを。
彼女は同じようなことを一度見て来たはずだ。
落ちて来た夜のような双眸が紗希を見やり、淡々と言葉を紡ぐ。
「私が何と説明したところで、紗希、あなたが分からなければ意味が無いの。
そして私はそれをあなたに説明しきれない。
本当に大切なことは、誰かに説明されるものでもするものでもないわ」
彼女がこういう背景を僕は推測が付いた。なんというか、さすが姉弟というところだ。誰かに説明されても、結局は自分の解釈だ。
やはり紗希は幾乃のその言葉に困ったようだが、そこには先ほどの単なる戸惑いとは違う色を見せていた。
戸惑いながらも、紗希は言う。
「幾乃ちゃん、紗希……私、いくちゃんに言わなければならないことがあるの。
私自身で、ちゃんと言わなくてはならないの。きっとそれは、今、幾乃ちゃんが伝えようとしていたことだと思う。
だから、私は行くよ」
そこには、5年前の何もできないままの子どもの顔は無い。
紗希の言葉に幾乃が苦笑のように小さく笑ったように見えた。
「幾乃ちゃん」
くるりと紗希に背を向ける幾乃に、紗希が声を掛けた。肩越しに幾乃は紗希を振り返る。
「幾乃ちゃんは?」
その問いに、今度は幾乃が目を伏せた。
「……分からないの」
その声はか細くて、僕は…幾寅の記憶も総合して初めて聞く幾乃の「素」の声だった。
「私は弟をこのまま眠らせていたいのか。
起こして、…起こして、"どこか遠く"に逃がしたいのか」
するりと幾乃の視線が上がって、狭い路地の狭い空を見上げた。一直線に塗られたような青空があった。
「私、いくちゃんが大嫌いなの。嫌いで嫌いで仕方ないわ」
そう言って、幾乃は紗希に顔を背けた。「…けれど、たった一人の肉親なの」
血とは厄介なものね、と幾乃は言った。
「……幾乃、一つだけ聞かせてくれないか。
その傘の魔法式はイネが組んだのだな?奴は今どこにいる?」
「前者に是。一つだけと言うのだからここまでよね?」
おい、と僕が半目で見やると、幾乃は肩を竦めた。「ごめんなさい、知らないの」
「灯」
とん、と肩を叩かれて振り返れば、僕の脱ぎ散らかした靴を差し出した千羽がいた。
つま先にくっついていた氷は払ってくれたらしい。
「ああ、すまない。ありがとう」
「小さくて玩具みたいだな」
可笑しげに千羽は笑い、靴を履く僕の手を掴んで支えてくれた。
そんな千羽を見上げて、僕は問いかけた。
「千羽、君は幾寅から『有事の時の幾乃の護衛』を頼まれているようだが…
君はどうするのかね?今の話から推測できないこともなかろう。
なんなら僕が説明するのも吝かではないよ。君の協力を仰げるならこれほど心強いものは無い」
僕の言葉に、千羽は軽く笑った。
「俺がとらから頼まれたのはとらの姉さんの護衛であって、とらを叩き起こしたり逃がしたりすることじゃない。
俺は一人しかいないから、二つのことを一緒にはできないな」
魔法使いは自分の限界を知っている。可能と不可能の境界線を知っている。
奇跡のような事象を引き起こす力を持っていても、たったそれだけのことと言われることでも、一番大切なことを、一番よく知っている。
「それに、姉さんのことを俺に頼んだときにとらはこのことを俺には話さなかった、ということは、これは俺が心配すべきことではないのだと思う。
だから、俺はそのとらの判断を信じて、頼まれごとを守ることにするよ」
魔法使いが硬く約束を順守するのは、きっと、魔法の理を守ることに通じるからなのだろう。
魔法使いでは無い僕が、その彼らの約束を壊すことが出来るはずもない。
それじゃぁ、と千羽は手を振って幾乃の後を追った。
そして思い出したかのように、パトカーのサイレンが近づいてきた。
狭い路地から抜けて駅に向かう道すがら、僕は手を繋いだ紗希を見上げた。
彼女越しに見える空は曇りがちになってきている。
「紗希」
繋いだ手を少し引くと、紗希は「うん?」と優しく微笑んで振り返った。「どうしたの?」
くるりと僕に向き直ってしゃがみ込み、ブラウンの双眸が僕を映した。
「紗希。巫祝王でさえ、理を持っていた」
その名前に、紗希の身体が凍りつく。
「理を持った人間でも、その在り方と末路を君は知っているはずだ。
曲がりなりにも魔法使いのなれの果て、紛いものでも思想と理を持った一族が為してきたことと、その渦中にあったもののこと、その一片を君は見て来たはずだ」
幾乃はずるい。
大切なことは説明されるものでもするものでもない。けれど、存在を教えなければ、それは存在しないということだ。それだって、真実だ。
「ましてや理を持たない人間の手に渡ったとき、どんなことになるかなんて…想像に難いのか難くないのかさえ分からない。
ギャップが大きすぎるんだ、紗希。存在することの容易さと、そのものが持つ意味の差が。
あいつは今のこの世界には、…"あの魔法具"は"大きすぎる"んだ」
人として認めろ?
人種さえ壁となる世界には無茶振りもいいところだ。
あの戦闘での幾乃と僕の目的は重なり合っているものがあった。
魔法具の一つの可能性を紗希に突きつけること。その先は、幾乃は曖昧だったようだが、僕は明確だった。
僕は紗希に諦めて欲しいのだ。
「…けれど紗希」
ぽつりと、とうとう雨粒が落ちて来た。
「人の心に理も道理も手を出せないはずだよ。紗希。
君が自分の心を抑え込むなんて必要ない。言いたいことを、伝えたいことを言えないなんてそんな不条理はないよ。
紗希、僕の言っていること、分かる?」
ぽつり、ぽつり、と。見上げる僕と紗希の間に雨の軌跡が走っていく。
強張っていた紗希の表情が、その雨粒を受けて解けていくように、だんだんと綻んだ。
「だいじょうぶ、分かってるわ、灯ちゃん」
ぽんぽんと、柔らかな掌が僕の頭を撫でる。
そうして、紗希は僕の記憶にある過去の話をする。まるで僕がそれを知らないかのように話す。
「紗希ね、5年前にいくちゃんに振られちゃったの。
ちゅー、てして、『こゆのは好きな人同士でするものだよ(キリッ)』とか言って。
…紗希ね、なんとなく気付いちゃったのよ」
ゆっくりと、紗希の手が僕の頬を撫でた。
「ああ、いくちゃんには好きな人がいるんだ、て。
好きな人がいて、その人と一緒にいることで満たされるものがあるって知ったのだな、て。
だから、紗希はいくちゃんのことを好きじゃない、なんて思ってるいくちゃんは、紗希を止めたんだな、て」
馬鹿め、墓穴を掘りやがって。お前が考えているほど紗希は鈍くないのだ。
「廃工場で聞いた灯ちゃんの話が本当なら、きっといくちゃんの好きな人はこの世界にはいないのね」
………墓穴掘りは僕もだったようだ。
紗希は笑った。それはそれはとても綺麗に笑った。
「だったら、なおのこと、紗希はいくちゃんに言わなきゃ。
だいじょうぶ、"これ"はきちんと紗希の気持ちだわ」
紗希の笑顔を雨粒が濡らすので、僕は差していた晴雨兼用の白い影の中に紗希を入れた。
「紗希。
僕は昔から、"ずっと昔から"、君のことが好きだよ」
「………ありがとうね、灯ちゃん」
自分が青と見ているものが、誰かにも青と見えるとは限らない。限らないのだ。
伝えられない想いがある、なんてことは知っていたのに、それがどれほど辛いことだということも分かっているのに、全く慣れやしない。
硬く閉じた唇の端が耐えきれずに震えているのが分かった。
雨音が白い傘を叩いた。
少しだけ重くて、冷たい雨だ。
(るらんどりーめらんこりっく3 了)
全く関係ないのですが、学校のにゃんこはホントは猫鍋がしたかったんです。。。
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