それはおそらく事実上の断末魔だった。
歪つな悲鳴を上げて、彼女は俺に掴みかかった。
「か え し て ぇえ ぇぇぇえええっっ !!」
彼女の体重を支えきれずに押し倒される、受け身を取りきれなった衝撃に息が詰まり、開いた口腔に細い指が突っ込まれた。
「ああ あ あ わた しのよ、 それは私のなの よおお お かえ かえして ええあ ああかえしてっっ」
咬みつこうにも喉奥にまで入ろうとする指が苦しくて口を塞ぎきれない、遠くでようやく事態に追いついた智詩が駆け出しながら叫んだ。
「ヴィンテ!ヴィンテっ!!」
ちょうど俺の下がポイントだったか、突風が吹き上げた。しかし補助的な風圧など今の彼女には何ら支障にならない。下にあったのが緊縛だったらまだよかったが。
藤本さんが彼女の名前を叫んだ、口から引き抜かれた手の先を見れば、足元に落ちていたものを拾い上げていた。
智詩の手が彼女の身体を押し遣ろうとし、藤本さんが引き金を引こうとし、目の前に黒い口が見えて、その向こうには懇願さえ滲む双眸と、その頭を覆う"領域"が開かれ、
まるで水分のたくさん詰まった大きくて重くて硬い殻の果実が潰れるような音だった。
ばたた、と頭の周りに水の跳ねる音がして、俺の上に乗った彼女の一部欠損した身体がゆっくりと横に倒れた。
その向こうの天井には、"魔法紛い"のために梁の上に鎮座するえっちゃんの姿が見えた。落ちないようにテープで固定してしまったので、後で剥がしに行かなきゃなと思っていると肩を揺すられた。
視線を向けると智詩のどこか泣き出しそうな顔があって、何度も「とら」と呼んでいた。動く右腕を上げてわっしと頭を掴むとびっくりしたようで、「だいじょうぶ」と言えたかどうかわからないけど彼の頭を撫でた。
いまだ事態が信じられないような面持ちで少し離れた場所に立ち尽くす藤本さんに、俺は少し申し訳ない気持ちになった。
そして、更にその向こう。俺たちが入ってきた入口に一つの小さな影が、同じように立ちつくしていた。
「……春兎」
逆光でもよく分かるくらいに見開かれた双眸は、真っ直ぐ俺を見ていた。胸元で握られた両手が震えている。
そんな彼に、小さく微笑んだ。
『そして物語は終焉を迎えたのです』(4) 死体の処理は俺がやると智詩には言っていた。
埋めても刻んで川に捨てても「絶対に見つからない」という保証はない。この国の警察は結構優秀なのだ。もっとも、市岐が消えた仲間を探すのに警察を利用するとは考えられないし、そもそも探す必要を考えることはないと思われたが、第三者の目もある。
「どうするつもりなのか」と問われて答えたのは一言。「ひたすら潰す」
原形を留めない程ひたすらに。
うさぎと同じだ。あのときは結局、間一髪のところでシイムさんに持って行って貰ってたから、同じ方法でしかも人体というずっと大きなものでできるのかとこっそり心配をしていたが、不可能ではないとついさっき証明された。
時間はかかるだろうきっと。処理の前に折れた腕を医者に診せに行けと言われたが、それまでこの死体をどうするのかとか、時間が空けば空くほどリスクは高くなると説得して、腕をパーカで固定してもらって今に至る。
廃倉庫の裏手の雑木林の中。みんなには少し離れた場所にいてもらった。うさぎの方法は簡単に言ってしまえば「制御なく領域に力を詰める」というものだったから、"誤爆"したりしては大変だからだ。
一つ呼吸を置いて、俺は頭の無い死体の周りを領域で覆い、魔法でも何でもないただの力の塊をその箱の中に詰め込んだ。
何度も何度も何度も何度も何度も、段々と潰しているものが何だったのか分からなくなるくらい。
気付いたら、俺はパーカの内側にあったケルティック・クロスを握り絞めていた。ぶつぶつと誰かの声が聞こえると思ったら、それは自分の口元から漏れているようで、よく耳を済ませたら「これは人だ、人だ、人だった、人だったんだ」と延々と繰り返していた。
狂ってしまうことなど簡単だった。
俺は、十字を握り締めてそう言い聞かせることで、繰り返すこの行為の中で失いかける"何か"を、落とさないように必死に掴んでいた。
幾寅が死体の処理を申し出る前まで、殺すのもその後も自分が行うのだと思っていた。それは構わないことだったし、彼には無理だろうとも考えていた。
蓋を開けてみればこのざまだ。自分は一体何をしたのだろう。
…いや、彼は一体、あの虚構の塔で何を見て来たんだろう。見かけは対して変わっていないのに、その中身は随分と変化しているようだった。まるで別人だ。
それが自分たちにとってプラスになるのかはたまた障害となるのか、智詩には判断しかねていた。よもやそんな曖昧なことを幾寅自身に聞くこともできず。
自分の目的の一つを果たせたと言うのに、智詩は胃が持たれるような重い違和感を感じながら、藤本と春兎を見やった。
春兎は藤本にしがみついていた。その藤本もまた、智詩と同じような表情をしていた。
正直なところ、今夜彼が取った行動については智詩は殴り飛ばしたい気さえしていた。つまり彼は自分たちを囮にしたのだ。彼の肩から下がっている銃と同じだった。あの女性と話すために、智詩や幾寅を使ったと言うことだ。これが自分と幾寅の目的に重なっていなければまっぴらごめんだ死んでこいと断っているところだった。
しかしそれは自分もおそらく幾寅も了承の上での今夜であり、結末だけを見れば見事にどちらの目的も果たせた。
そして、智詩もまた藤本を殴れる立場にはいない。この立場にいるのはおそらく、あの建物の影で死体を潰している小柄な彼だけだ。
……少し時間が掛かっている、と智詩は気付いた。人一人の身体を潰すのにどれくらいの時間が掛かるかなど智詩は知りもしないが、さっき見た頭部の様子から考えると、幾寅が建物の裏に入ってからの時間は長いように感じられた。
気分を悪くしているんだろう。
「様子見てくる」
藤本にことわると「頼む」と頷かれた。建物の裏に近づくにつれて、カチカチカチと虫の音が智詩の耳に届いた。虫の音に紛れて、さっきみたいな重い音が聞こえるのではないかと思っていたが、聞こえてくるのは虫の声ばかりだ。
建物の影に入ると、予想通り幾寅の小さな影がしゃがみ込んでいた。
「…とら、だいじょうぶ」
か、と近づいてはっきりと見えた幾寅の姿に、自分が大きな間違いをしていたことに気付いた。
カチカチと鳴っていたのは虫の声では無かった。
幾寅の足元は逃れようのないほど赤黒く濡れており、死人のように見開かれた双眸は彼の前にある大量の黒い水たまりを目に焼き付けるように見つめている。がたがたと傍から見ても分かるくらいに身体は震えながら胸に下げていたケルティック・クロスを噛み締めていた。カチカチと聞こえたのはその音だったのだ。
この異様な状態の人間に触っていいのかどうかさえ、智詩には判らない。
立ちつくす彼の耳に、もう一つの音が聞こえた。
「人、人、人、人、人、ひと、人、ひと人ひとひとひとひとひとひと」
"やってしまった"という絶望感の後ろで、智詩は場違いに小さな安堵をした。
幾寅がケルティック・クロスを持っていて良かった。
あれが無ければきっと、彼は自分の指を食いちぎっていた。PR