鬼さんこちら 手の鳴る方へ 天上を覆う光が見えた。
押し潰さんとするその下で、自分はひとりであった。
…いや
小さな手がぎゅっと、その存在を気付かせるように力強く握る。
振り返れば、そこにはいつもの笑顔が。
そうだ、僕には君がいた。
さぁ、一緒に、きれいな日々を迎えに行こう。 -はいいろのいんぼう- (前編) その夢を見た朝、僕は決まって失った右目から涙が溢れている。
起きあがった真正面には化粧台があり、5歳ほどの小さな女の子の姿をした僕のしかめっ面を映し返していた。
横手の窓から注ぐ朝の光は明るい。今日はいい天気だ。
「灯ちゃーん、そろそろ起きてねぇ」
階下から大好きな紗希の声が聞こえた。「すぐ行く」
僕はそう答えてベッドから抜けだし、いつも紗希が用意してくれる服に着替え、サイドチェストに置かれていたピンク色の眼帯を装着、ベッドに残っていた眼帯と同じ色のうさぎのぬいぐるみを手に取った。
「また例の夢を見たようだなぁ、灯」
くつくつとした笑い声でうさぎが僕に話しかけた。…ような気がした。
腕の中のうさぎの更にその中身は全て綿である。音が出るような要素は無い。はずだ。
「よぉ、おはようさん、灯」
「おはよう山本。随分早いのではないか?」
階下へ降りると居間には紗希の他に山本がいた。ソファに深く座り込んで読んでいたらしい新聞から顔を上げて僕へ手を振る。
黒髪を短く刈り上げ、この時期だというのに既に肌は日に焼けている。しっかりと均整の取れた身体は、アジア人らしく筋肉が膨れることは無いが僕は彼が誰かと腕相撲で負けたところを見たことが無い。
今日は山本と出かける予定があることにはあるが、それでも迎えに来るには早すぎる時間だ。
「近所だもんよ。時間を見計らってくるのもめんどくせぇだろ。
俺と一緒にモーニングは嫌ですかい、お嬢さん?」
「嫌ではないとも、歓迎だ。しかし君の朝食を用意するのは僕ではないのでね」
「やまもっちゃんはぁ、昨日買ってきたパンでもいいよねー??」
「せめてコーヒー飲ませてくれ!」
そして本当に彼には菓子パンを出した紗希に笑いつつ、僕は炊きたてのご飯とお味噌汁を平らげた。
僕は紗希の油あげとお豆腐のお味噌がとても好きだった。
「それじゃ、気を付けて行ってきてねぇ。
たぶん、紗希のが早く戻ってると思うけれど、鍵は持って行ってね」
「うん、ちゃんと持ったよ。行ってくる、紗希」
ぎう、と紗希に抱きつきながら返す。出かける前のキスのようなものだ。僕は紗希を愛しているので、"大きくなったら"お嫁さんに貰おうと思う。
玄関を出ると山本が僕に気付き、吸っていた煙草を庭にある灰皿へと潰していた。我が家は全面禁煙である。喫煙者は冬でも庭かベランダで吸わなければならない。
「吸ったばかりではないのかね?僕を気遣ってくれたのなら遠慮はない。気にせずゆっくり吸いたまえよ」
「女の子を待たせる趣味は無ぇのよ」
殊勝なことである。
「えっちゃんはちゃんと持ったか?」
「持ったとも。…首絞めていたりしないか見てくれ」
そう言って、僕は山本に背中を向けた。背負っている小花柄のリュックからうさぎのぬいぐるみの頭が出ているはずだ。うまく出ているといいんだが、まるっきり頭から下が落ちているようだと若干気味の悪い図になっているかもしれない。
ぬいぐるみなので…いやそもそも生き物ではないので首を吊るなんて事態にはなりはしないが。
「ん、大丈夫らしい」
「…そうか」
らしい、という伝聞形は流した。「問題ない」なんて声は僕には聞こえなかった。
僕が持っていた傘を開いて肩に掛けると、山本が自然に手を差し出した。僕は遠慮なくそれを取る。
僕が開いた傘は、晴雨兼用の白いレースをあしらった日傘である。
僕と山本が訪れたのはパンダで有名な動物園の傍にある西洋美術館だ。
春の大型連休を中心に、ラ・トゥールの絵がここに来ていた。僕は彼の絵がとても好きだったので、山本に頼んで連れてきてもらったのだ。
いや、頼んだのは実際は紗希であったのだが。僕はこんなナリではあるが一人で電車に乗れもするし、ブレーキとアクセルに足が届けば運転することも可能だ。
要は「交通手段」の他に、紗希には…紗希にも山本にも懸念することがあるということだ。
「うむ、やはり酷い人の混みようだな」
「早めに来てよかったな、あんまり並ぶことは無かったけれども…」
「そもそも日本の美術館は狭いとは思わないかね?美術品、特に絵画を鑑賞するのにソファの一つも無いとはおかしいと思うのだよ」
「へぇ、そういうもんか?」
「山本、君は国外の美術館に行ったことが無いだろう?一度行ってみるといい、そのときは西欧をお勧めするよ。あの辺りは質の高い美術品が日常にしっくりと浸透している」
「一度スペインには行ったけど、まっしぐらにサッカー場行っちゃったからなぁ」
「勿体ない。スペインの魅力の6割を欠いているよ」
「意外にサッカーの割合が多いのな?」
「サッカーとガウディとピカソで構成されているようなものだろう」
「それはそれでものすごく偏っている気がする。ところで、ちゃんと絵は見えてるか?」
「愚問だ山本、これだけ人がごった返しているというのに見えるとでも?」
「はは、だよなぁ。いつかも篆刻展でショーケースの中身が見えないって言ってたな」
「………僕は篆刻展に行った覚えはないのだが、それは"誰との"思い出なのかね、山本?」
照明の落とされた館内は観賞する人たちで溢れかえっている状態だった。しかしこの国の人々はこのような場所で騒ぎ立てることを好むところではないので、さざ波のような息遣いと囁きが響くだけで至って静かである。
その中で、僕の低い問いかけは何物にも邪魔されずに山本の耳に届いたようだ。
やや棘を持って彼を睨みあげると、山本は凍った笑顔を貼りつけて僕らの正面にあるだろう絵画を見つめている。僕らの正面には、ラ・トゥールの「大工の聖ヨセフ」があるはずだ。
ラ・トゥール展のパンフレットの表紙を何度も撫でている山本の手に気付いて、僕は彼にも分かるくらいのため息をついた。
「何か雑音が聞こえたようだ、山本。確か君は、ちゃんと絵が見えない僕を肩に乗せてくれると言っていたのだよな?」
「そ、そう、そうだったな、よし、来い灯」
まるで僕との試合を始めるかのような構えをして、山本が慌てて返した。
山本はしゃがんで僕を抱き上げ、「よっ」と肩車をした。いっぺんに視界が高くなり、人の頭の群れの向こうに、僕が待ち望んでいた『夜の情景』が現れた。
「見えるかー?」
「うむ、ばっちりだ山本、感謝する」
僕は山本の頭をぽんぽんと叩いて、しかし視線は絵画から動かさない。なんて深い闇だろう。
僕は夜が嫌いだった。夜は『奴ら』の属性だからだ。暗闇に蠢き、ときに昼の太陽さえ手を伸ばして覆い隠し、人を引きずりこんではそれが幸せだと説き伏せようとする『奴ら』が、僕は大嫌いだった。
しかしこのラ・トゥールの描く夜はその深い闇の中に人の温かさが滲むのだ。その最たる「大工の聖ヨセフ」に、僕は一目惚れをした。
登場人物は2人。タイトルのヨセフと、少年イエス。画面右寄りにいる少年イエスがかざす蝋燭の明かりに、対面するヨセフの顔が僅かに照らされている。その少年を見る眼差しが、なんとも深い。照らし出されない部屋の隅の闇よりもなお、その瞳は深いのだ。
愛情と畏怖の混じった色に、僕は『人間』を見た。これは単なる登場人物ではない、"人"だ。
この闇の中でも、人が存在することができるのではないかと、僕はちょっぴり勇気づけられたのだ。
「原物を見られるとは、幸い至極、僥倖だな、山本」
「ホント好きねぇ。あ、前が空きそうだけど、近くで見るか?」
「いや、いいんだ山本、僕は近くで見たいわけじゃない。これを風景の中で見たいのだよ」
「あー…だから、もっと広い場所で見たいってことか」
「まぁ、広いというか、"一部"としてね」
それが一番"いい眺め"ではあるのだが、この絵を彼に担がせて持ち帰るわけにはいかない。僕はまだしも山本の手が後ろへ回ってしまう。
だからこうしてこの絵を少しでも記憶に留めておこうと、周りから区別して見つめざるを得ない。それは僕の望むところではないのだが、致し方ない。
人の流れが更に多くなってきたところで、僕は山本に声をかけて「大工のヨセフ」を後にした。
随分と長い時間をかけて見て回ったようで、開館と同時に入ったにも関わらず出てきたのは軽く昼を回った時間だった。
山本は紗希からミュージアムグッズを頼まれているらしく、いまだ館内に居る。僕は中のソファで待っているようにと言われていたのだが、いい陽気である。外に出ないわけがない。僕は春が大好きだった。それに、ロビーにあるソファはご老人方に譲るべきである。
美術館の入り口のすぐ横に「地獄の門」のレプリカがある。ちらりと見かけたことはあったが、よくよく眺めてみたことは無かった。差している傘を傾けて見上げると想像していたよりも大きい。レリーフの一つ一つに意味があるのだろうと考えつつも、今の僕にはそれを探る手がかりが無い。
などと考えていると、
「…灯ちゃん?」
不意に後ろから声を掛けられた。振りかえると、僕とは対照的な黒い日傘を差している一人の小柄な女性が、こちらを見ていた。
黒い艶やかなセミロング、髪と同じ色の黒曜石の双眸、そして僕とは違った健康的な白磁の肌。
僕はこの女性を知っていた。
「突然ごめんなさいね。ちょっとお話しをしてもいいかしら?」
黒い瞳は感情を灯さない。"5年前"から年齢さえ何一つ変わっていないようなその姿を、僕はまじまじと見つめてしまった。
「……幾乃ちゃんか」
そこへ、一つの声が掛けられる。およそ身内に向けるには相応しくない警戒色を滲ませた目で彼女を見るのは、ミュージアムショップの袋を片手の山本だ。
何故彼がこの目の前の女性、"奴"の実姉である幾乃へそんな目を向けるのか、僕には分からない、ということにしておいた方がいい気がした。
「はは」という笑い声と共にリュックが揺れるはずがない。
「お久しぶりね、山本君。あなたにもお話ししたいことがあるのだけれど、なんだかそんな空気では無さそうね?」
「幾乃ちゃん次第だよ、"一連の事件"について君の意見を聞かせてくれるのであれば」
「あら残念。私はその話をするつもりはないわ」
「関与しているのか、否か、だけでも?」
「その二択はずるいのではないかしら?関与していないわけが無いじゃない」
話さないつもりではあるが、隠すつもりでもないらしい淡白な態度で幾乃が返答すると、山本はゆっくりと僕の方へ近づいた。しかし幾乃はそれを止めるつもりも、その前に行動を起こすつもりもないようだ。
ゆっくりと山本へ向けられていた黒曜石が動いて、僕を含めて視界に収めた。
幾乃の華奢な肩が僅かに動いた。ため息をついたらしい。
「もう少し、話の分かる人はいないのかしらね?」
「残念ながら」
その問いかけは明らかに僕に振られたようであったので正直なところを返すと、「ちょ(笑)」くらいのノリで山本がツッコミを入れる。
「出直した方が良さそうね。灯ちゃんとも、山本君とも、それぞれ個別に話した方がよいと分かったわ」
「そのときはぜひ、君が『味方』だということが分かるものを用意してくれるとスムーズに話が進むと思うんだ」
「知ってるかしら、山本君。人はそれを"無茶振り"というのよ」
僅かに幾乃の綺麗な唇の端が吊りあがる。あれはきっと苦笑なのだろう。
踵を返しかける彼女に、「幾乃ちゃん」と山本が声をかけた。
「…とらを知っていないか?」
山本の問いかけに視線だけを向ける幾乃の双眸は、春の陽気の中にあるにも拘らず、底冷えをするような温度だった。
「あなたも間接的には知っているでしょう?
今朝の新聞にも元気に載っていたわ」
それだけを告げると、幾乃は背中を向けて歩き出してしまった。その後ろ姿は、確かにヒールの足音が聞こえているのにまるで幻のように非現実的な空気を持っていた。
僕は山本をちらりと見やった。
……見るのではなかった。
山本は酷く不安そうな顔をしていた。心配や、寂寥や、心細さや、そういう色が滲んでいたのだ。
そしてきっと、僕のこの後悔は嫉妬に起因するのだろう。
『市岐』の象徴たる『巫祝王』が"何者か"に消されてから5年。
僕の愛してやまない紗希と山本は、巫祝王と同時に姿を消したあの赤毛の影を追っている。
(後編へ)
終わりの見えている物語ほどつまらないものは無い。
少なくとも、絡んで頂いている人たちにそう思われてしまうんじゃないかと怖くて走らせるのを迷ったりもしたのですが…
市岐側の人たちの話もまとめてあげたいなと思って書き始めました。
これと、学校の方で進めさせて頂いている話を軸にまとめられたらと思います。
終わりの形はあります。
ありますが、それをどのように迎えるかというのは未知数であると考えています。
かなりの余談ですが、西洋美術館の展示場にソファはあるです…
でもほら、ねぇ、も、全体的な狭さがねぇ…??
後編は明日に上げられるといいなぁと思ってます( `・ω・´)ゝ”
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