『陽のあたる場所』
1.日野裕也
ぼくが彼を初めて見たのは初年度の5月の終わりだった。
常に情報と分析を欠かさないぼくとしたことが、この発見はかなり遅かった。
仕方ないと言えば仕方ないだろう。なぜなら彼は、初年度から既に出席日数を問われるくらいに大学を休みまくっているからだ。
「おおおおおおっっ!!きみかっ!きみが噂の黒傘くんかっ!やっと遭遇できたね!!」
正門近くで見かけた晴天の下の黒い傘にぼくは全速力で駆けより、傘の下の顔をがっしと掴んでこちらを向けさせた。
小さい小さいと聞いていたが、ぼくが想像していたよりは普通の身長だった。もっと掌サイズな漫画的な小ささなのかと思っていたのだ。
「うむっ!まさしくアルビノ的な色素だな!ここまで抜けている人間は初めて見るよ!ちょっとサングラスを外しても構わないかね?!」
この肌の色の落ち方だ、きっと目の色も緑とか黄色とかに違いないもしかしたら赤いかもしれない眼振というのも見
「…と!」
しかしぼくの期待はあっさりと黒い影に遮られてしまった。黒傘くんが容赦なくぼくに向かって差していた傘を振り下ろしたからだ。
「……いい度胸してんじゃねぇか」
「…へ?」
くっくっく、とそれこそ漫画の悪役じみた笑い声でも聞こえそうな声音が黒い傘の向こうから聞こえた。
さ、と上げた傘の向こうには、白いこめかみに青筋を浮かべた顔があった。
「初対面で顔掴むたぁケンカ売ってんのかごるぁ!!」
そして黒傘くんはその必需品である黒傘をあっさりと放り投げてぼくに向かってきた。
その若干枯れた低い声だとか、まさか啖呵切って殴りかかってくるとか、意外すぎる!というかそんな情報は拾っていないぞ。
だいたいの人がぼくに対して抱く印象そのままに、ぼくはいわゆる草食男子であるので掴まれた胸倉をどうすることもできずに、襲いかかる白い拳を瞠目していると、ぴたりと黒傘くんの動きが止まった。
ぼくにはその理由が分かった。僕の後ろから黒傘くんを呼ぶ人がいたからだ。
「おーいとら、久しぶりの登校で暴力沙汰でも起こす気か?」
「まいど、山本」
ぼくの胸倉を掴んだまま、黒傘くんはひらりと握っていた拳を解いて手を振った。
振り返ればこれまた有名な学生がからからと笑いながらこちらへ歩いてくる。
「お、お前はー…」
光栄なことに、ぼくの顔を見た山本と呼ばれた学生はぼくのことを知っているようだ。
「向かいの大学の奴じゃねぇか」
「他校生かよ?!」
見事な素早さで黒傘くんが突っ込んだ。ついでに後ろの山本くんが「変態で有名な」と付け加えたが、黒傘くんの声に掻き消されたようでぼくには届かない。
そう、ぼくは実はこの大学の向かいにある大学の学生なのだ。つまりこの黒傘くんの目撃情報は国道を挟んだ学校にまで広く届いているというわけだ。
学内で収まっていることではないと思っていたが、やはりというところだろう。
……む、しかしそうなると逆も然り、ぼくの情報もこちら側に届いているのか。慎ましく日々を送っているというのに、それは心外だ。
「ったく、よその学校まで何しに来てんだてめぇ…帰れ帰れ!」
他校生と聞いて気でも削がれたのか(では同校だったらそのまま殴っていたのだろうかというツッコミはスルーだ)、黒傘くんは掴んでいた胸倉を突き飛ばすように放して、更に追い払うように手を振った。
"そして"ぼくはその手を取る。
「目的ならばきみに会いに来たのだよ黒傘くん。きみの話を聞いてからぼくは夜も満足に眠れなかったよ!ぼくの生活圏内に2万に1人の人間がいるなんて!
黒傘くん!ぜひぼくにきみの体を開かせてくれないか?!」
「死ねってか!!」
「じゃぁせめて皮膚採取だけでもっ!」
「よーぉし歯ぁ食いしばれっ!!」
食い下がったぼくに黒傘くんが引きつった笑みで袖をまくった。その腕の白さにぼくはくらくらする。
しかしいけないな。いくら今日が曇っていても紫外線は日に日に強まっているのだ。
ぼくは捲くられた彼の袖をびー、と下ろして(黒傘くんはここでも予想外にもぼくのその行動をきょとんと見ているだけだった)から、放り投げられた傘を拾い上げて差し出した。
「きみをかっさばいて隅々まで暴けるなら拳の一つや二つは甘んじて受けよう」
「なんか重々しく聞こえるけど割に合ってねぇよなっ?!」
「しかし皮膚がんで変異してしまうのはぼくには大変残念でならない。よってあまり簡単に傘を手放すのはよろしくないな」
「……」
黒傘くんは実に微妙な顔をしてぼくから傘を受け取った。
情報は情報でしかないもののようだ。ぼくはもっと小さくて大人しい人間を想像していたのだが、まるで違った。身長以外は。
これは面白い。ぼくは今日の今日まで生活圏内にいるというアルビノくんに対して身体的な興味しかなかったのだが、こうして実際に会うとその内面と呼ばれるものにも非常に興味が湧いた。
黒傘くんは傘を肩に預けてぼくを見上げた。何か言いかけたのだが、そのとき計ったかのようなタイミングで始業のベルが鳴る。
ぼくは彼の言葉を聞きたかったわけだが、黒傘くんの言葉と教授の解説を天秤に掛けたらやはり右の方が重いので「ではまた」と手を挙げて正門をくぐった。
ぼくの足取りは軽かった。非常に軽かった。羽毛くらい軽かった。
それほど多くない友人に言わせれば、そのときのぼくは「子どもが新しいおもちゃを手に入れたようだった」らしい。
非常に心外である。彼をたかがおもちゃに例えないでいただきたい。彼はれっきとした人間であり、血の通った生物であり、数少ない体質の持ち主であるのだ。
敬意を払って「検体」と呼ぶべきである。ぼくは新しく貴重な実験対象を見つけたのだ。うむ、やはりこの方がしっくりくるではないか。
そしてぼくはこの日から、実に面白く愉快な学生生活を送っているのだ。
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