ときに人は、目に見えるものや自分の感じたことが全てだとおもうことがある。
そしてそれは、いちがいに間違いではない。あらゆる真実は一つではなく、それにまつわる全ての人々の数だけ存在する。
その裏に、どんなに複雑な思惑や駆け引きや思慮があったとしても、形にして目の前に出さなければ受け手が気づくことはないのだ。(そしてそれは愚かだとは思わない)
きみにとっての真実は、君が感じたことの全てだったろう。そして同時に、わたしの真実もまた存在する。それがきみの真実とは違った。ただそれだけのことだったのだ。
それを分かり合おうとしようとも、互いに弾劾しあうことではないはずだ。
きみと一緒にいたのは、こんな過去の記憶を痛いものにするためではなかった。なかったはずだ、少なくともわたしは。
こういうと、きみは「やはり分からないのね」と思うかもしれない。きみの何を分かればよかったのだ。きみの痛みか。きみの抱えているものか。
きみが望んでいることが分からないから、きみの真意を測りかねるのだ。
きみは、わたしがこうして悩むことを望んでいるのだろうか。きみが味わってきたように、わたしも痛みにもがけばいいのだろうか。
そうだとするならば、もう勘弁してほしい。
一年だ。一年経った今もなお、きみは突きつけてくる。きみが指し示すきみの真実が、わたしは痛くてたまらない。
この一年ずっと、というわけではない。しかしわたしは、わたしの中のきみへの想いが変容するくらいには悩み、考え、苦しんできたのだ。きみのことを考えると、発作のように涙が出てくるのだ。
わたしにはきみの苦しみや、痛みが分からないだろう。だが、知ってはくれないか。
きみもまた、わたしのこの気持ちを理解できないということを。
痛みを分かち合う事なんてできない。見えない物を分かち合えていたら、きみとわたしはこんなことにはならなかったはずだ。
それでも、わたしはきみの痛みを分かろうとしていたのだよ。きみには伝わらなかったようだがね。
正直、わたしは疲れた。きみの突きつける一つ一つの真実を聞き入れる力が、もうない。
自分の脆弱さを歯がゆくは思うけれど、もうこれできみの言葉を聞かなくてもいいのだと思うと、すこし、安心するのだ。
わたしはきみを諦める。
それが一年前の自分の言葉を裏切ることになろうと。このままきみに飲み込まれたくない。
きみのことを嫌いになったわけではない。きみは変わらずわたしの大切な友人であるから、この先、きみが歩む道に暖かな幸せがあればいいと望んでいる。
ただ、その幸福の中にわたしは入っていないだろう。わたしはもう、きみに笑いかけられる気がしない。かつてのように、きみを笑わせることもできないだろう。
お互いが…いや、わたしが痛いだけの距離など、わたしは耐えられない。
自分勝手なと蔑んでくれて構わない。
わたしは、わたしが落ち込むことで巻き込む友人たちに、それより多くの前向きな私を見せたい。
きみに、もうわたしの言葉が届かないのならば、わたしは、わたしの言葉を掬ってくれる友人たちの手を取りたい。
わたしは残念ながら、人並以上の本数の腕を持っていないのだよ。
一年だ。もう十分だろう。
わたしはきみを諦める。
きみもわたしを忘れてくれて構わない。苦しかったのなら、それしかないのなら、どうか忘れてほしい。
もう放っておいて欲しい。わずかな希望をちらつかせないでほしい。
ただ痛いのだ、どうしようもなく。
わたしはきみの幸せを祈るから、どうかきみのことをわたしのなかでこれ以上冷たい位置に寄らせないでほしい。
たった一年だ。
その短い時間で、その4倍もかけて築きあってきた…少なくともわたしはそう信じていた…目に見えない繋がりが、こんなにも薄れてしまった。
わたしはきみがとても好きだった。それが、あの頃のようにただただ純粋にきみを好きだと心から言えなくなってしまったことが、ひどく悲しいのだ。
これをきみに伝えて決別するのが「筋の通った」ことなのだろう。
だが、わたしはきみを好きゆえにこれを伝えたくはない。
きみに伝えないまま、抱えていく。
他のだれでもない、自分自身のために。
それが翻ってわたしの手を取ってくれる友人たちに還元できると信じて。
PR