まさかじいちゃんの四十九日と教員採用試験がぶつかったときは驚きましたけれども…これはもうやめとけってことかと。迷ってるくらいなら止めとけとっていうか大体勉強してねぇんだから意味ねぇだろってことですね分かってました。
幾乃と対峙してから数日。
季節はすっかり秋へと移行し、近くの銀杏並木は見事に金色に染まっているし、お隣の玄関の紅葉は恥じらうように赤く染まった。
こういう色合いを見ると決まって思い出すのは、あの塔にいた一人の蝶々の女の子だ。
僕"も"、彼女のことは好きだ。
幾乃が持っていた黒い傘を、僕は知っていた。あれは幾寅が幾乃に渡した傘だ。
両親は遠くへ逃がした。従弟妹たちは自衛出来るだけの力を持っている。
市岐の家の中で唯一攻撃も防御の手段を持っていない姉を、奴は奴なりに心配をしていたらしい。傘には緊縛とルメンナールの魔法式と、詠唱すれば発動できるだけの魔力を織り込んだ。
ゆえに、発動できるのは一度だけ。
だがそこに、僕の知らない…幾寅が織り込んでいない魔法式が新たに織り込まれていた。
「灯、これ…」
秋雨続きの午後をまったり過ごそうとしていた休日の僕に、唐突に来訪した春兎は紙包みを渡した。
受け渡しの際にか、少し濡れてしまった紙袋を受け取り、僕は中身を確認する。
一枚のメモと、見覚えのある輝石が入っていた。
「春兎、これは」
「さっきそこで、誰だか分からないのだけど貰って」
「ひとまず君は知らない人から飴玉を貰っても口に入れたり家に持って入らないでくれ」
ちょっと、と僕は紙袋を再び春兎に押し付け、雨の中へ飛び出した。
まだその辺りにいるんじゃないかと思ったのだが、思っていたより強い雨の中にあの背中は見えなかった。
「…灯!」
代わりに聞こえた声に振り返ると、余分な傘とタオルを手に持った山本がこちらへ駆けて来た。
僕をまず差している傘の中へ入れて傘を持たせると、がっしゃがっしゃとタオルでめちゃくちゃに僕の頭を掻き混ぜる。
「どこの青春野郎だよ、風邪引くぞ」
「失敬な。僕はあの赤毛と違ってこう見えて身体は丈夫だ。100M走も速いぞ」
「はいはいわろすわろす」
「殴っていいか?」
ぐいぐいと顔を拭われるタオルの向こうに苦笑気味の山本を見て、僕は握り締めた拳を解いた。
"僕"が山本へ向ける気持ちも、友情とは言い難い。友情が過ぎて、純粋過ぎて、なんだか別のようなものに見える。
しゃがんだ彼は、大体僕と同じ目線の高さだ。
「誰を追いかけたんだ?」
「残念だが、幾寅では無いよ」
僕が答えると、彼は少し落胆したような影を見せた。しかし、
「木場という男だ。5年前、幾寅に人を殺させられた男だよ」
続けた僕の言葉に、山本の顔から表情が消えた。
人の想いと言うのは分からない。分からないと言うのは正しくは無い、分かっている、よく、分かっているのだ。
『私は今回限りで、あなたと市岐と縁を切ります。
私の認識していなかった殺意を認識させたあなたのことを、私は祝福することができそうにありません。
けれど、何故だか分からないけれど、あなたに伝えたいことがあります。
見つけてくれてありがとう』
5年前、ソレンティアで卒業した木場から受け取った手紙にはそう書かれていた。
何故だか分からない、としか、言いようがない。言葉と認識はイコールで繋がるとどこかで聞いたけれど、言葉で言い切れない気持ちがあることも確かだ。
「そいつ、見つけられたのか?」
「…いや。もう見つけられないだろう」
僕には。
「そか。じゃあ帰ろう、頑丈でも風邪引くよ」
よし、と山本は笑った。僕の手から傘が奪われて、よいしょとばかりに広い背中に背負われる。
傘を叩く雨の音が近い。
「…灯、お客さん来てるよ」
「……」
家に戻ると玄関の靴が一足多くて、僕は嫌な予感がしていたのだが、全くその通りだった。
居間のソファには智詩が座っていた。
「何の用かね?」
「幾乃ちゃんと昨日会ったよ。少し前に君と会った、と言っていたから、そろそろ動くのではないのかと思ったんだ」
微妙に噛みあってない僕らの会話に、横の山本が首を傾げた。春兎は元より聞いているのかいないのか淡々とした様子で全員分のお茶を淹れている。
「…どういうことだ?」
「?」
横の山本の真似をしたわけではないが、僕が首を傾げると智詩も同じように首を傾げた。春兎以外の居合わせた人間が全て首を傾げる、てどういう状況だ。
智詩はぱちぱちと黒眼がちの目を瞬かせたが、「ああ」と納得したらしい。
「なんだ、君気付いてないのか、忘れてるだけか。
幾乃ちゃんの傘、イネが組み込んだのがあるでしょう?あれはこちらに来てから…とらからイネに代わった後に組み込まれたものなんだよ」
そりゃ分かる。
うん、と私が頷くと、智詩は少しきょとんとした。まるで「それで何故分からないのか」と言わんばかりだ。
「とらは本家の倉庫に、ソレンティアから持ち帰った資料や素材を入れておいたんでしょう?
倉庫は保存には持って来いだし、市岐が崩壊した後はあの家が無人になることを見込んでいたのだもの」
「………」
巫祝王が消えた後、市岐の動向は指を指して笑ってしまうほどお粗末だった。界眞が不在し、依伊野は元より市岐の外の魔法使いであるため早々に、見事な勢いで姿をくらませた。残る斉堂、城芭、臥野は…
「元々、市岐の末端の人間は頭領の存在よりも巫祝王への信仰があっての求心力だったしね。その求心力を上の人間が利用していたにすぎない、巫祝王は絶対で、消えることなんて考えもしてなかったからね。
だから、巫祝王を消して、なり代わった跡目が頭領の記憶と理を順番に潰していくなんて事態になれば、誰もあの家には近づかないし、それどころじゃないよね。
ソレンティアの魔法使いに、偽物の魔法使いが適うはずがない」
僕はバカだ。灯台もと暗しなんてところじゃない。
奴はすぐ近くにいたのだ。
「イネは本家を拠点にしているよ」
あの場所にいるのだ。
「……君、この間僕に『行方の知れないとらの方を追っていた』と言っていなかったかね」
「言ったね。拠点は知っていたんだけどよくほっつき歩くからさ。
ごめんね、本家のことは知ってると思ってたんだ」
非難を込めて半眼で智詩を見やると、彼は肩を竦めて返した。
立っているのも疲れたので、僕は山本の手を引いて智詩に向き合うようにソファに座った。
僕の非難は勝手なものなのでそれ以上を責めることはせず、代わりにもう一つ質問をした。
「しかしそれで何故、幾乃と一戦交えたことが次の行動のきっかけになると思ったんだ?」
「幾乃ちゃんが魔法具を持っているからだよ。
その魔法具を使い切った。だから、イネを叩くのではないかと思ったんだ」
春兎がお茶をお盆に乗せて持ってきて、まるで他人事のように僕たちの話を聞きながらお茶を置く。
智詩は礼を言ってお茶を受け取り、ふぅ、とため息みたいな冷まし方をして一口啜る。
「イネと対峙した時、もしも幾乃ちゃんがイネ側についていたとしても脅威にならないからね」
淡々と言う智詩に、僕はうんざりと頭を掻いた。
「…君たちはホントに5年前から変わらないな」
僕が言うと、智詩はすっ呆けた様な顔をして首を反対側に傾けた。
僕の言葉を肯定も否定もしているような表情だ。
そして肯定しているならば、やはり「なぜ分からないのか」と言わんばかりだ。
「もっとたくさん話しをしろよ。幾乃はイネに味方すると言ったのか?すべて君の推測では無いのか?
今君が推測した僕の行動は、全て外れだ、智詩。
僕はイネの拠点が本家にあるとは知らなかったし、僕が今まで行動を起こさなかったのは別のきっかけを待っていたのだよ。
それに僕は、元々この件に首を突っ込む気は無かった。
この物語は、僕が何をしなくても終わるからだ」
マイペースにお茶を淹れて立ったままお茶を飲んでいた春兎でさえ、僕の最後の言葉に眉を寄せた。
僕はひらひらと手を振って「何でもない」と言うと、智詩は僕を見据えて口を開いた。
「…君の行動を推測していたのが全く間違っていた、というのは…失礼なことをしてしまったね。
けれど灯、君には分かるかな?
ときどき、"なんとも言えないけれど"、"分かる"ときがあるんだよ。
たぶん…俺たちの中にある理のせいだと思うんだけど…。言わなくても分かる、見えなくても分かる、そこにとても安心している。根拠など無いのにね、一体"誰"の"感情"なのだろうかとさえ思えてくる」
むかしむかし、遠いむかし。
大陸の片隅の、綺麗な花の咲く山の間の小さな集落に。
小さな女の子と男の子が暮らしておりました。…
彼の感じている"誰か"とは、おそらくあの白い彼女なのだろう。
「灯、君に関しては間違っていたけれど、幾乃ちゃんについては俺は間違っていないと言えるよ。
幾乃ちゃんは分からなかったんだ、最後まで。
彼女は巫祝王に自分の弟が生物として成り立っていないことを聞かされたときから、ずっと、自分の立ち位置が分からなかったんだ」
そう言って僕を見つめる双眸は、果てしなく透き通っている。その目を、僕は知っている気がした。
その目を僕は、水底の奥深くで見たような気がした。
「智詩、それは幾乃の話じゃない。君自身の話だ。
立ち位置を迷っているのは君だ。それを同じ境遇だと思い込んだ幾乃に投影しているだけだ。
人は"分かり合えた"と思っているだけなのだよ」
そして、確かに見つけたはずの"僕の答え"を言う僕の声は、苦々しい響きがした。
それを智詩が見逃すはずがない。
「それが"幾寅"の答えなの?
きっと、とらは理の外にいたから、分からなかったのかもしれないね」
智詩はそれ以上を説得しない。分からなければ分からないでいいのだ。そんなことはどうでもいいのだ。
彼は確かに"市岐"の人間だ。5年前に死んだあの女より…いや、全く同等に。
どうしてどいつもこいつも、"市岐"の人間と言うやつは。…ときどき、同じ人間のくせに垣間見えるのだ。智詩や春兎やあの女にさえ、その向こう側に、暖かな春のような、満ちている、何かを。
それはきっと概念だ。いつか幾乃が畏れ、幾寅が潰すと決意した、途方も無い存在だ。
なんとも言えない感情に押し黙った僕の頭を、隣の山本がぽんぽんと叩いた。
「よく話しがわかんねぇんだけど、とりあえずまだこっちは動かない予定なんだわ、智詩くん。
つっても、俺もいつ灯が動くのかってのは知らねぇんだけどさ。
一緒に動くつもりなら、そっちの打ち合わせをした方がいんじゃねぇかな?」
お前らはいっつもそうやって難しい話しの方に行くからなー、などと言って山本は僕を撫でていた手で、ぐしゃぐしゃと自分の頭を掻き混ぜた。
僕はぶんぶんと首を振って思考を切り替えた。「ありがとう、山本」
そして智詩を見上げる。彼は小さく苦笑したような表情を浮かべて、「うん」と頷いた。
智詩だって迷っているのだ。それもまた間違いではない。
少なくとも5年前は確かにそうだった。…今は、どうなのか知らないけれど。
人の想いは分からない。言葉に出来ない想いと言うのは、おそらく今後、ずっと言葉に出来ないのだと思う。
智詩が5年前、幾寅に話したものや、
僕が山本に向け、山本が幾寅に想う感覚や、
幾寅が、ダークエルフの彼に向ける感情は。
5年前、幾寅は一人の女の子に告げた。蝶々の女の子だ。
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