その日はいつかのようによく晴れていて、雲ひとつないくらいよく晴れていて、しかし少し肌寒かった。
僕は白い傘を差しながら河川敷を歩いていた。思い出をなぞるわけではないけれど(そんな余裕をこいてる場合ではないけれど)、足取りを確かめたくなったのだ。
あの日あいつは、どういう思いでこの場所を歩いたのだろうか。それは僕の記憶を辿れば分かることではあった。
腹が立ってしょうがないけれど、そのときのあの赤毛の気分はすこぶる快晴で、これから来る未来に胸が高鳴ってしょうがないくらい満ち足りていた。何もかもが輝いて見える、なんて表現を使ってもいいくらいだ。
それくらいの衝動を、ただ静かに胸に置いておく、そんな心境だったのだ。
その裏に、その光が強いほどに濃くなっている憎悪があるとは思わないで。
やがて僕の足は一つの大きな屋敷の前に来た。今も昔も変わらないような、人気のない、人を寄せ付けないたたずまいを見せる、市岐本家。
僕は背中のリュックに声を掛けた。
「エウブレウス、僕の携帯を取ってくれないか」
「ほいよ」
とん、と肩に当たった携帯を礼を言って受け取り、僕は智詩にコールをした。
2回目のコールで「はい」と智詩の低くほの甘い声が返って来た。
「着いた。張ってくれ」
「了解」
短い返答と共に、市岐本家を覆い囲む『領域』が展開された。これで例え中に他の市岐がいても木偶の棒同然、イネについても多重展開ができまい。
さぁ。
じゃりり、と足元で不吉なまでの玉砂利が鳴る。
市岐本家。
仕上げの一歩手前。
中へ入るとうっすらと積もった埃が舞った。さすがに5年間も誰も棲みつかないとこうなりもするか。
僕はポケットからハンカチを取り出して口許を押さえて進んだ。奴がいるとしたらあそこしかないだろう。最奥の、巫祝王の間だ。
長く続く廊下の横手には締め切られてないふすまが並んでいる。部屋の奥は当然のことながら暗く人はいなそうだ。
ふと、目の端に何かがちらついたのでそちらを振り返ってみると、その暗い部屋の中に何かが瞬いている。立ち止まってよく見ると、それは青い蝶々だった。
あれは実体ではない。幻に近いが"確かにある"存在だ。
"誰のもの"か分からなかったが、あれ自体に何か影響が及ぼせるとも思わなかったので、僕は無視して奥へと進んだ。
奥へ進んで行くと陽が当たらないせいか、だんだんと空気が冷えてきた。進む足がすくむ…わけもなく、僕はやはり構わず奥へと進んだ。
やがて一枚の黒い襖に突き当たる。「どうぞ」
僕が来たことを察したかのように、中から朗らかな声が迎えた。
僕は殊更構えることも無く、家の和室の襖を開けるように遠慮なくそれを開いた。
左袖を翻す黒いコートに病的な白さの肌、どちらの色にも映える鮮やかな赤い髪。
市岐当主が当然の如くそこに居た。
「ごきげんいかが?」
「うるわしくてよ」
後ろ手に襖を閉めて部屋の中を一瞥すると、僕の記憶の中の部屋と変わりが無いように見えた。十分動ける、という広さではないけれど、この男一人を制圧するくらいであれば問題ないだろう。
「もうお前の仕事はないのではないかね?
できれば大人しく"明け渡して"欲しいのだがね、いかがかな?」
「ごめん被るね」
僕の穏便かつ最大譲歩の提案を、奴…イネはにっこりあっさりと拒否した。
僕はふん、と鼻を鳴らして腕を組む。
「今さら現世が恋しくなったのかね?残念ながらそれはお前の身体じゃないのだよ」
「約束したのは君じゃないから」
「奴が目を覚ますまで居座るつもりか?覚まさせるつもりもないくせに」
「…僕が望んでるんじゃない」
じゃあ誰が、と追求しかけたところで、僕の言葉は呑み込まれた。
真っ直ぐ、イネの灰色の瞳が僕を射抜いた。
「帰ってくれないかな。君こそまだ"出番"ではないよ」
底冷えのする冬のような冷気が、イネの方から足元を伝わってにじり寄る。
僕は一度硬く奥歯を噛み締めて、震えそうな身体の芯を引き締めた。「いやだね」
「邪魔をするなら君とて容赦はしないよ」
「邪魔など心外だな。お前にはもうすべきことなどない」
「あるよ。"彼女"がいる限り」
ふと酷く優しい笑みを浮かべ、次の瞬間、間合いを詰めた灰色の双眸が目の前にあった。
「"君と同じく"ね」
僕はとっさに胴をガードした。右ストレートが僕の腕に、前もってをスクタムを掛けておかねば骨を持って行かれたんではないかというくらいの衝撃を叩きこむ。
クアリネジメントを発動させ全身の重力変化、吹っ飛ばされることなく受け止めた僕はイネの拳を掴んでピアスに仕込んだブロンを発動させる。ばしん、と光が散ってイネの右腕が痙攣した。
これでしばらく使えまい。
にやりと見上げると、変わらないイネの柔らかな笑顔でもって、左足を中段で蹴りあげた。後ろへの退路は無いためそのまま左へ飛ぶように退避する。
距離が空いてしまった、と思いすぐに状態を整えて再度襲撃を掛けようと奴を見ると、ふわりと右手に青い燐光が走ったのが見えた。
ボナビランクス。痺れている状態を正常な状態に回復させたのだ。
まぁそうなりますよね。
考えたら当然の成り行きに僕は嘆息を吐きたい気分で再び駆け出す。目が合えばいい。出来れば覗きこめるくらいの近距離で。
君と同じく、だと…?
僕はイネの言葉を反芻して笑った。何をどう誤解しているのか分からないが、僕とイネの目的は全く真逆であるし、僕の目的は"彼女"がいようといまいと関係ない。
長い時間を掛けて思考が潰れてしまったのだろうか。いい気味と言うほかない。
僕は足元に滑り込み、足払いを狙った。この身長差をとにかく崩したい。
イネはひょいと飛んで僕の足払いをかわした。次いで、くるりと振り返って大股で間合いを詰め直すと、勢いよく今度は上段まで蹴り上げる。そんなに僕を蹴飛ばしたいのかと言いたい。
僕はそのまま転がってやりすごし、反回転で向き直ると残りのピアスのセトラを解放した。スピードを解放して間合いを詰める、今度は直前で踏み切り、奴の頭部目掛けてクアリネジメントを付与した右足を鞭さながらに回して叩きつけ、「っ!」
存在しない左手側からの襲撃に、右手を間に合わせやがった。
「弱点は克服するものでしょう?」
にこり、と笑って僕の右足を掴んだまま、床に叩きつけた。上手く受け身が取れないまま叩きつけられ、僕の肺は一瞬酸素を吸い込めなかった。
そのまま、がっしと頭部を掴まれて抑え込まれる。これでは僕のしたい事と逆だ。
「このまま帰ってくれるなら見逃そう」
逆だが。
「結構だ。僕を"誰だ"と思っている」
きょとんとしたイネの目が、は、と見開く。
逆だが、距離には変わらない。
そして僕は、"巫祝王の理を受け入れていた"者だ。
「お前の"理"を開け、イネド!」
僕はイネドの灰色の瞳を覗き込んだ。
その向こうに、白い陽の光を見た気がした。
PR