『るらんどりーめらんこりっく』1
「さて山本。
君と僕の間にはどうも認識の乖離があるようだ。
今後のお互いの幸せの為に僕はぜひともその間を埋めたいのだが、君はどうかね?」
「……どうかね、て…」
廃工場の一件から2回ほど夜が巡っていた。僕だってさすがにあの出来事から立ち直るには一晩では無理だった。
自室に引きこもっていた僕に紗希や山本が何度も声を掛けてくれていたが、その間の僕にとって二人の声は耐えがたいもので、唯一まともに話を聴けたのは今もしっかりと抱きしめているうさぬいと、僕の名前を聞いてくれた春兎くらいだった。
だが、まぁ、僕はあの赤毛とは違うので無理なことは無理だと切り分け、可能な範囲での最善策を取ることに尽力するのみである。
つまり今回僕が無理だと判断したのは。
『紗希と山本に"僕"を見るようにすること』だ。
「その前に灯、まず謝りたいことが」
「廃工場の件のことかね?それについては君が謝る必要は無いと思うね。
確かに君は僕の警告を無視して突っ走ってくれたが、君の性格やアレとの関わりを考えれば突っ走る可能性があることの方が自然だ。僕が予測できなかった方が悪い。
なのでそれについて、僕は君と認識を合わせたいのだよ、山本」
もちろん、山本の謝りたい事と言うのが僕の言っている限りではないことは承知している。僕はアレと同じくらい、この男のことを知っているのだから。
だが山本から謝られたところで、彼が僕を通してあの赤毛を見ることを止めることはないだろうというのが僕の結論だ。根本的な部分で、彼は僕に謝り"切れない"のだ。
そんな謝罪を、僕は欲しくない。
…ということを、おそらく彼に話したところで理解を得ることはあるまい。
優しい彼は、おそらくその理解を出来ないことに対しても僕に謝るに違いない。
僕の単なる不貞腐れで山本に謝らせないということで済むのなら、それが一番彼に負担が無く、且つ僕が譲歩できるギリギリの着地点なのだ。
山本は僕が彼に謝らせることはないと察したようで、なんとも申し訳なさそうな顔で頷いた。
「灯の話を聞こう」
「ありがとう、山本」
そう言って僕が笑うと、釣られるように山本の口元が綻んだ。
「山本、おそらく君が一番恐れていることから話そう。
僕はアレを殺すつもりはない」
僕の言葉に山本はハッキリと安心の表情を浮かべた。だがすぐに、ゆるんだ表情筋を引き締める。
「殺すつもりはないが、何ならある…んだ?」
僕は彼に拍手を贈ってやりたい。段々彼も言葉の裏を読むようになってきた。
それがいいことなのかどうなのかは用いる基準に因るとは言えど、いささか単純すぎる彼には疑いを持つことに余計だということも無いだろう。
「君が恐れるほどのものではないよ。
ただ叩き起こしたいだけだ。僕たちがこんなにも必死になっているのに寝こけているなんて腹立たしいったらない」
「……」
山本の眉が寄り、疑わしげに僕を見つめる。
まぁ…なんというか、無理もない。山本は僕がどれだけあいつを嫌いなのかを知っているし。
僕は一つ息を吐いて続けた。
「山本、僕は幾寅は大嫌いだがね、僕がどうこうしたいのは幾寅じゃない。
今、あいつの身体を動かしている方だよ」
山本の目が大きく開く。「あいつは誰…イクト、て奴なのか?」
僕はその問いになんだかツボった。しかしどうにか笑いを堪えて山本に説明をする。
「君も知っているはずの人間だよ。幾寅の弟だった人間だ。
10年ほど前に死んで、数人の人間以外の記憶から抹消された者だ。もちろん山本、君の記憶からもね」
「どういうことだ?」
「話すと長くなるし、過ぎた出来ごとだよ。今、僕たちに起こっていることに関してそれほど影響のあるもんじゃ…いや、違うな、影響があり過ぎて、知っても知らなくても大した差じゃない、ということかな。
知っていればいいのは、その育斗が今、あいつの身体を動かしていて、幾寅自身はぐーすかと寝ているってことだ。
そして大切なことは、育斗は死んだ人間だということだよ」
死んだ人間が生きている人間に対して手出ししてくるというのはおかしい話じゃないかね?
僕は山本に説明してみせた。嘘じゃない。あの死人に対して気に食わない大きな要因だ。正確には元と同じ身体ではないからそれっぽい言葉を使えば「転生」したということになるんだろうが、そんなものは僕の方から言わせれば「だから何」の一言に尽きる。
死んだ人間はこっちに影響を及ぼしてくれるな。
「幾寅が起きれば育斗は消える。そういう"取り決め"になっているんだ。
だから僕は幾寅を叩き起こす。不愉快なのだよ、あの偉そうな口ぶりが」
「人のこと言えねぇぜ?」
僕の腕の中でエウブレウスがあひゃひゃと笑う。むぎゅりと僕はその口を塞いだ。声が口から出ているのかは分からないのだが。
「…が、そこで問題が発生しているのではないかね?山本」
「え…?」
僕の問いかけに、山本がきょとんと眼を丸くした。
僕は少し苦笑する。
「僕と君の目的が、その点でずれているのではないかと言っているのだよ、山本。
君の目的は"彼女"と一緒だ。分かるかい?彼女だよ。
『どんな形でもいい、幾寅がどこかで息をしていて、苦しくない状況であるならそれで構わない』…
君"たち"はこう考えているはずだ」
僕がそう言うと、静かに山本の空気が変わった。意識して彼が変えているわけじゃないだろう。しかしそれは、いつも山本が持っているカラッとして明るい日向のような空気ではなく、湿度も明るさも温度も変わらないのに、"なんだか"いつもと肌触りが違うような…微妙だけれどハッキリと分かる変化だった。
「うん…。確かに灯の言うとおり、俺はとらが眠っていようがどうあろうが、どこかに存在していて安らかにあるのであれば、それを壊したくは無い…て思ってるよ」
「うむ。ここの認識は間違ってないようだ」
ここまでは合っている。なのでそれゆえに、懸念されることもある。
「しかしそうであれば、山本、君は僕のやろうとしていることを阻止する可能性がある、とうことじゃないかね?」
「…まぁねぇ?」
そうだ、とも、いや違う、とも取れる曖昧な笑いを山本は浮かべた。
山本の質の悪いところはすぐに切れるところと、無意識に裏を持つために読み切れないところだろう。
僕の視線に、山本はおそらく先ほど僕がしたような苦笑を浮かべた。
「でも灯、それはとら"が"自分からそうしたというのが大前提だよ。
とらが自分から眠るという選択をとったのであれば、俺は灯のやろうとしていることを阻止してでも現状を維持したよ」
彼は過去形で語った。
そして少し考えてから口を開いた僕に、「いや、いいよ」と山本は手で遮った。
「どうであったのかはとらから直接聞こう。そんで自分から寝ました、てことだったら、も一回寝かせればいいだけの話だよ」
そう言って、山本はいつもの太陽のような笑顔を見せた。
僕はそれだけで満足だったので、切り出そうとした言葉をそのままにして、「うん」と素直に頷くのだった。
山本が「いい」と言ってくれたので言わなかったのは、実は僕はその事実を知らないということだった。
つまり、幾寅が自分から眠ったのか、育斗…イネに眠らされているのか、僕は知らないのだ。
僕は幾寅の記憶を丸ごと持っている、というのはほぼ正解である。ほぼ。後のわずか、というのがこの部分だ。
『幾寅が起きれば育斗は消える取り決め』というのは幾寅がそう考えていたのであって、実際にイネと交わされた遣り取りであるかどうかは僕は知らない。だが、幾寅がそう考え、実行しないわけがなく、イネはその取り決めを持ちかけられれば承諾しないわけがないため、山本にはそうである、と伝えた。
そう、そんなわけがない、のだ。あの二人の間には。
そうでなければ、僕が存在する意義が無い。
「本当に腹が立つ」
山本が仕事に出かけた後に残され自室のベッドの上で、むにむにとエウブレウスを摘みながら、僕はぶすりと呟いた。
「ま、そこは同感だぜぇ?」と意地の悪そうな声でエウブレウスは笑った。
たかが死人が好き勝手しやがって。
僕のイネへの苛立ちの最大の原因は要約すればそこに集まるわけだが、山本に説明した『生きている人に手出し』という部分は主に僕を指していたことなど、山本には分からないだろう。
イネは繰り返したのだ。幾寅にしたことを、僕に。
僕は幾寅のバックアップだ。
幾寅が目覚めた時もしも記憶を失っていた場合に、僕に"触れる"ことで記憶を復活させるための、バックアップなのである。
イネが自分の記憶を取り戻せるよう幾寅という欠片を残したように、幾寅が記憶を失っても問題がないように、僕に全ての記憶をコピーした。
……記憶だけと願いたいところだが…。
「あいつ絶対、学校で知り合った記憶装置のナノスを参考にしたのだと思う」
「無ぇわけじゃないだろうな」
腹いせにそんなことを言ってみる。腹いせになるかどうかは言った僕にも分からないのだが。
エウブレウスは軽く笑って僕の腹いせに乗ってくれた。
「…ところでエウブレウス、君の嫌いなものは諦観だったな」
「それがどうしたい?」
くるりと振り返るエウブレウスに、僕は眉を軽く上げる。
「そんな君が、よく幾寅を許せたものだなと、思ってね」
エウブレウスのつぶらな黒い瞳が僕を見上げる。うさぬいは表情が変わらない。しかしその空気にはどこか…ひやりとしたものがあった。
「お前さんなら分かると思うがな、それが、あの虚弱だからだよ。
あの男の根底がそれであるなら、俺様は動かしようがねぇよ。
俺はどこまでいったって鏡だからな」
「僕の諦観は許してくれないくせに」
「お?よく分かったな」
「"知って"いるよ。君が幾寅以外に許すことがないことは、幾寅が知っていたからね」
「言葉を選んでくれたのかい、嬢ちゃん。許すんじゃなくて、あいつは"諦めた"と思ってるだろ?」
エウブレウスの身体が小さく揺れたので、もしかしたら肩を竦めたのかもしれない。
僕はその様子に純粋に驚いた。
「なんだいエウブレウス、君、ちょっと凹んでいるのかい?
君が言ったんだろう、あの男の根底が諦観だと。
存在の前提が諦観なのだよ。誰も自分と同じ風景を見ることは無い、誰も自分と同じ感覚になることは無い、誰も自分と同じ道を行く者はいない。
そして自分もまた、誰かと同じにはなれない。
人間不信だとあいつは思っていたようだがな、人間の前の段階だよ。存在不信だ」
誰も彼もが違うとしたら、一体何を基準とすればいいのだろう。
その基準は自分が決めるモノであるのに、その自分が信じられないというのだから救いようがない。自分を含めた全ての存在に対して、その存在自体を疑うわけだ。
まるで市岐だ。市岐そのものだ。
僕はそこまで考えて、エウブレウスを抱いたままベッドに仰向けに倒れ込んだ。
「…だから凹む必要などないのだ、と君を励まそうと思ったのだがな、考えてたら僕まで憂鬱になってきた」
「それが正常な反応だろうよ」
「僕もそうだと思う。しかしそう考えると、あいつは化物だな」
「聞き捨てならねぇな」
低い声で唸るようなエウブレウスに、僕はやれやれとため息を吐く。エウブレウスにとって僕の結論は理解できるだろうが、認めるわけにはいかないのだろう。幾寅の相棒として。
僕はそれ以上を口には出さなかったが、撤回もしなかった。
幾寅の諦観は、まるで市岐そのものだ。
だが市岐とは決定的に異なる。彼はその市岐を飲みこんでも、諦観を見つめても、"一人"のまま歩けるだけの希望を持っていた。
全ての事象の上に希望を散りばめた。
その色は、あの、よく晴れた秋の日の。
「僕の見る青と、誰かの見る青は、同じではない。
それを一番よく知っているだろうに…おめでたい奴だ」
今度はエウブレウスから反論はなかった。では「おめでたい奴」で決定だ。
たった一度。
確かに同じ青を見たのだ。それを青と呼ぶのか、空色と呼ぶのか、同じ呼称で、果たしてそれを同じ青と認識していたのか。
どこまでもつきまとう市岐の思想は、しかし確かにそのとき、ただ、空色一色に塗り潰された。
だが僕には、ただの水色でしかない。
あの空色は幾寅に与えられたものだからだ。
僕は目を閉じた。
瞼の裏には、星さえも見えない黒があるばかりだ。
(『るらんどりーめらんこりっく』1 了)
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