057. 約束が窓を叩く
「なんだその生き物は」
「戻ってくるときに拾ったんだよ」
「飼えないものを拾ってくるなと私に言ったのは貴様ではなかったか?」
「おいこらお前、私を一体なn」
「ブラックマン、貴様ばかりずるいではないか、私だって飼いたいものがあるのだぞ」
「キール、ちゃんと餌やれんのか?討伐行ってるときどうするんだよ」
「これとて同じだろう、元の場所に返して来い。私が『拾って下さい』の箱を用意してやる」
「誰が捨て猫かっっ」
でけぇ野郎二人の間でようやくツッコミを入れられた私を、金髪でノックスペンナリアンは長い前髪から覗いている金色の左目で私を見下ろした。ちらりと見えた右目は赤かった。オッドアイなのだろう。
その金は一見、背筋が寒くなるような冷たい視線だ。
「ほぉ、喋りおった。なんだ貴様、そんなナリで一人前に喋れるのか」
「失礼な奴だな、言語を操るのに体積は関係なかろう」
「この小さな頭にそれほどの脳みそが詰まっているのかということだ」
ふふ、と面白げに笑う金髪のノックスはそう言って私の頭を長い指でつんつくと押した。私はよろろと後ろへ後退したが、転んでしまうのはなんとか耐えた。
賢人の中でも最小…いや、あらゆる全ての生き物の中でおそらく最小であろう私の体長は、一般女性の掌を立てた手首の付け根から中指のてっぺんまでの長さより、更に親指一本分くらい長い。
だからと言って脳みその詰まり方が不十分だとか、なんと失礼な。
こちらこそ「なんだこの生き物は」と言いたいところだ。
私たちが乗合馬車へ戻ると、驚いたことに既に商人の姿も大量の商品も無かった。トムと大介はいえーい、と緩いハイタッチをして、親切にも彼らの荷物を見ていてくれた御者に礼を言った。横転した荷馬車は車輪が壊れてしまっていたため、私たちは御者が連絡を入れてくれた代わりの馬車を待ってこの町までなんとか辿りついた。
代わりの馬車を待っている間に、商人はどうしたのかと御者に問えば、あちらはあちらで連絡を入れたらしく、迎えと自分一人(と荷物と)で去って行ってしまったらしい。
『お前が向かっていた行き先は覚えているんだろうな?』
覚えているとも。
まさに今いる、この町だ。
トムたちが借りているという宿屋に着くと、腕を組んで迎えてくれたのがこの妙な雰囲気を持つノックスペンナリアンだった。
そして、
「うーわーぁっ!なに、なにこれー?!」
唐突にひょいと掴み上げられ、くるりと後ろを振り向かされると、視界に飛び込んできたのは可愛らしい…なんと少年のエルフだった。女の子かと思った。
「ブラックマンが拾って来たのだ。なぁカイトよ、私も猫を一匹拾って来ていいと思わんか?」
「キールさんはお忙しいからだめです」
きぱ、とエルフの少年に言い切られ、私は後ろを振り向けない状態であったがなんとなくしょんぼりしているんじゃないかと想像できた。
そして目の前の少年は、ただでさえきらきらした双眸を更に輝かせている。しまった、なんとなくこの輝きには逆らい難い空気がある。
私の様子に気付いているのか、少年の奥からにやにやと楽しげにトムがこちらを見ている。
「お名前は何て言うの?」
「…い、いくとら…」
「とら?とらって言うの?
僕、カイト!よろしくっちいさなとら!」
小さなはいらない、と言おうとしたが、カイトは嬉しげに笑って私の頭を撫でくり撫でくりしている。この空気を私は知っている。似ている空気を持っている人物を一人、知っている。ついでに言えば、私は彼に弱い。めっぽう弱い。以上より、私の状態については推して知るべし。
「いくとら、て言うのか」
「そうだよ」
ようやくカイトから解放された私に、トムが声を掛けた。どさりとそれほど広くない部屋を更に狭めるかのように設置されたベッドに腰掛け、まだ私と視線が合わないためか、ごろんと寝っ転がった。
寝っ転がられるとさすがに相手の方が視線が低くなるので、私もその場に座る。
「で、とらはどこか行きてぇ場所があるわけじゃねーの?」
「特にここ、という場所はないよ。流れているのだよ」
「賢人てそんなにうろちょろしてるもんだっけ?」
「私はね。"賢者"や"皇帝"などはそうそう姿を現さない。
…あぁ、"語り部"もよくその辺を歩いているようだよ」
まいど、と声を掛けるともうかりまっか、と返す友人を思い出しつつ答えると、トムはへーぇ?と質問した割には気のない相槌をする。
「そうなると安全な場所、てなぁ…」
どうやら彼の意識はそちらに傾いているようだ。律儀な男だな、と思った。
「トム・ブラックマン。
私が君と契約をしたのは、あの商人から逃れるためだった。私が意図した"安全な場所"とは商人から離れた、この状態のことだ。
だから私の契約は満たされているのだよ」
なので、私は彼に告げた。彼の誠意をこれ以上利用するのは失礼だろう。
トムはきょとんと私を見た。「そうなのか?」
「そうなのだよ。だから君がこれ以上頭を悩ませる必要はない。
ありがとう、トム・ブラックマン。礼を言おう」
「お、おお…」
「ついでにもう一つお願いしていいかね?」
「おう」
くるくると回る展開になんとかついて来れた様な顔をしたトムに、私はにこりと笑った。
「もう少し君たちに付き合わせてくれないか?」
"彷徨える案内人"とは、七賢の"8"番目、つまり私を指す二つ名だ。
略称として"迷子"などと情けない呼び方も持つ。
その役割は他の賢者たちよりずっと大衆に近い位置で進むべき方向を示すというものだった。他の賢者たちより俗世に近い場所にいるのだ。
「お前、そんなにガンガン姿見せてていいのかよ?」
市場の買い出しに出ている大介に私も付き合せてもらっていた。
この町は貿易港として栄え、この市場にも各国の物産が所狭しと並べられている。色が溢れて目眩がしてきそうな勢いだ。
「構わないとも。本来私はこういう存在なのだよ。
それをあの商人が騙して捕まえてだな…」
「つか、商人が手を出すってくらいなんだからやっぱりそれなりに売れるモノなんじゃねぇか」
「私を売っ払ったところで何になるというのかね。明日の天気も予測できないのだよ?」
「何かしらの利用価値があるんだろ?後は、単に希少だとか」
「そんな曖昧なものに値段を付けるとはね。それに希少さで言えば私と君はそんなに変わらない
」
「はぁ?何言ってんだ、俺は一般市民でお前は賢者だろうが」
「そんなものは建前の話だよ。
君と私、ともに1対1だ」
私の解に大介はぽかんと口を開けた。「希少だろう?」
しかし大介はふるふると頭を振り、「何言ってんだ」と言って取り合わなかった。ううむ、なかなか難しいやつだ。
「双頭の鷲?」
武具屋の軒先を眺めていると、ふと店主と客の会話が聞こえた。
「そうよ、この世に2丁しか無ぇお宝もんよ。
それに込められた銃弾は鷲の鉤爪のように獲物を抉る、てな」
「聞いたことはあるけれど、どこぞのコレクターの中に埋まってるって話しじゃないか。
それに、そういうものは大体装飾が酷くて実用には向いてない」
「それがそうとは限らねぇ。これがいまだに現役で使用されているって最近もっぱらの噂でよ。
なんでも黒髪の凄腕の狙撃手が手にしていたらしいのよ」
「それどこで聞いてきたんだよ?そこまで具体的に聞いているなら噂じゃないだろ」
どうやら客は噂以上の伝説くらいに取り合わない姿勢のようだ。
私と大介は他のペーパーナイフなんぞを見ながらその会話に耳をそばだてていた。
「黒髪か。
ブラックマンは赤毛だったね」
「ぶっは」
いきなり大介が噴き出した。私は別に面白いことは言ってないのだが。
大介の肩から横を振り返れば、驚いた目で私を見返す視線とかち合った。
どうやら彼は笑ったのではなく、驚いたようだった。
「な、なんでいきなりそこでトムが出てくるんだよ…っ」
「なんでもなにも、つい数時間前にこれでもかと彼の銃を見せてくれただろう」
そうだった、とばかりに大介の口があんぐりと開いた。
そう、実用性を兼ね備えたお宝のような銃の1丁は、あの赤毛の狙撃手が持っている銀色の銃だった。よく観察すれば、そのグリップに双頭の鷲のシンボルが彫られているのが見えよう。
「誰もあれが本物とは思ってねぇよ」
「だろうね。それくらい自然にブラックマンは使いこなしている」
まさに現役、仰々しさも神々しささえも匂わない。今ここの軒先に並べられている他の銃と何ら変わりない硝煙の匂いしかしないだろう。
しかしてその実態は、最大級のイグニ弾を2発込めても銃身を損なわず、魔法弾の威力を損なわず、しれりとした顔で炸裂させる、紛れも無い最上級品だ。
「しかし気になるね。黒髪か」
「そうか?トムが持ってるんだからもう一つくらい誰か持ってんだろ」
「その噂をここで、こんなに近くで聞くことにだよ」
噂や伝説は何もないところから生まれては来ない。何か元ネタがあるはずだ。
その元ネタが近くにいるのではないかと思ったのだ。こんな具体的な噂に出会うのだから。
しかも2丁しかない銃の、1丁は近くにある銃の。偶然と言うにはいささか見過ごせない…と思うのは私ばかりで、大介は果物ナイフを1振り持って、店主に声を掛けていた。
「おい、おせぇよ」
石屋の店の前にいた大介の頭を小突いたのは、噂の銃を持つトム・ブラックマンだ。
「いって… 俺のせいじゃねぇよ、こいつがあれ見てぇこれ見てぇって言うから」
「それに何親切に付き合ってんだって言ってんだよ」
「大介は人がいいのでね、頼みこむと拒否できないのだよ」
「そゆの本人の目の前で言うか?!」
自覚が無いようなので忠告含みで言ってみたのだが、思いがけず怒られてしまった。
買い出しに来てゆうに3時間。確かにトムか誰かが迎えに来てしまう程時間が掛かってしまっていたようだ。これについては申し訳ない。
「すまないね、ブラックマン。つい珍しいものばかりなので目移りしてしまったのだよ」
「そんなに珍しいのか?そりゃここは世界中のもんが集まってはくるだろうけれど…
賢人のお前が夢中になるようなもんがあるとはねぇ?」
「私はこちらに出て来たばかりなのでね。ほとんどのものが珍しいばかりだよ」
こちら?と大介が問いかける。「私たち賢人がいる場所を"サイハテ"と言うよ」
世界と時の果て、サイハテ。世界の三層構造において朝と大海の間に位置する場所だ。両方に片足ずつ突っ込んでいるところ、と言うと想像がつきやすいだろう。
「あぁ、そう言えばそうだったな。…それって何か別の呼び方無かったっけ?」
「………大介、きっとそれは蔑称だ。君がそれを口にした瞬間に私は君をけちょんけちょんにしたい心境に駆られるのでそこまでで留めておいて欲しい」
サイハテに別称は無い。あるのは私たちへの蔑称だけだ。
げ、と大介は口を横に引っ張って、それ以上を続けることを止めた。ありがとう。
「とりあえず、物見遊山にしても一度荷物を届けてくれよ。そん中のもんを待ってる仲間もいるからさ」
「やべ、そうだった!キール怒ってねぇかな…っ」
慌てて歩き出す大介の後を、のんびりとトムが追った。
にぎわいを見せる通りから一本入るともうそこは住宅地のような細い道で、地元人しか通らないような通りに出る。乾燥地帯に多い白い砂の壁を持つ家は集合住宅の様で、両側に3階ほどの高さで建っている。上を見上げればその広くは無い路地の間を張り廻らすように洗濯物の紐が伸びていて、色とりどりの衣服が風に揺らめいていた。
子どもがボールを蹴飛ばして遊んでいる横を通り過ぎる。
「………」
「………」
無言で歩いて行くトムと大介を私は見上げた。
口に出すほど鈍くはないのだろう。
「行くぞ」
短くトムが言い放って、二人は不意にもう一本奥の路地へ入った。そして走る!
後ろから複数の追跡が聞こえた。
「なんだなんだなんなんだ、お前の追手か…?!」
大介が肩に乗っている私を見やりながら声を上げる。それは無い、と言いたいところだが根拠に欠ける。
追手はつかず離れずで追跡をしている。このまま宿屋に向かっては居場所がバレるだけだ。距離を保って走らせ、疲労を狙うのだろう。
「あの商人かな?」
トムがぽつりと聞いてくる。私にか、大介にかは良く分からない。
「今のところ、あの商人以外に追手を差し向けられる心当たりはあるのかね?」
「ないね」
「じゃああの商人だろう」
………「てめぇのおかげってことか!」
大介がご明答を披露する。いやはや申し訳ない。
よほど取り返したいようだ。取り返すというよりは、殺り返す、みたいな当て字の方が適切な気がしてくるような追手である。
「どこか広い場所に出た方がいいのではないかね?このまま走って疲労するよりも、撃退した方が良いのではないかな?」
「いくとらさん、俺たちは学生なんですよ、勝手に人を撃退しちゃうと校則に引っかかっちゃうんですよ」
「校則云々を言ってる場合かね?」
「…でもねぇですよね」
少しの逡巡の後、トムは意を決して胸のホルターに手を掛ける。私はこの町の地図を"裏"で引っ掛けて、ここから一番近い広場を検索した。
「そこを左だ!」
短く二人に指示を出す。勢いを殺さないまま左に曲がると、すぐに開けた場所に出た。公園だ。
「ここから離れろ!」
公園にいた子どもたちに向かってトムが怒鳴る。その勢いと声に怯えた子どもたちは蜘蛛の子を散らすように公園から出て行った。
そして荷物を抱えながらの大介のアウラが展開した。追手から放たれた銃弾が金色の障壁に飲まれて消える。
「ブラックマン、殺すなよ。時間を稼ぎたまえ」
「…?」
双頭の鷲を構えたトムに声を掛けると、怪訝な顔をしつつも彼は標的の頭から手元に照準を変えた。
大介の防御壁は完璧だった。敵が横手に回り込む前にトムが全て撃退して行く。そのため、真正面から敵の姿を捉えることが出来た。
私は腰に下げている本"連なる記憶"を開いた。"検索"しようにも"誰"が分からないと引っ掛けることすらできない。
しかしソレンティアの校則とは厄介なものがあるな。学生の行動は全て校則によって制限されているようだが、その限りだとこのトム・ブラックマンにとっては致命的な状況に陥るのではないかと思われた。というか今まさにそんな感じだし。
やがて全ての追手を追い返したトムと大介は、完全に追手の気配が無くなると盛大なため息をついて武器を収めた。
「…全員逃がしちまったけど、いいのかよ?」
「よかねぇだろ」
「いや構わんよ。全員捉えた」
え、とトムと大介の視線がこちらへ走った。私は今しがた引っ掛けた情報を書き出した本の頁を破ってトムに渡した。
「これを警察に渡したまえ。先ほどの奴らの全ての個人情報と潜伏先を記した。これで捕まえられないようであれば無能に等しいと付けくわえてもよいよ」
「なんでそんなケンカ腰なんだよっていうかちっさくて見えねぇぇぇっっ」
根性で見たまえ、と私は付け加えた。
これならばソレンティアの校則には引っ掛からないだろう。
「ブラックマン」
「あん?」
「君、ソレンティアにいない方がいいのではないかね?」
私の提言にぎょっとしたのは大介だ。トムは私の言葉に心当たりがあるのか、特に驚きもせずに私を見つめ返した。
「君にとって異形を撃退できないのはともかく、"人を撃退できない"のは致命的じゃないのかね?
今は私が引き起こして私が手伝えるからいいとして、これが私ではなく"君自身の"話だったらどうするつもりなのかね」
年相応には不似合いな諦観を備えた碧眼を見つめながら、私は今の言葉に一つ嘘を吐いた。
いや、正確には嘘では無く、言葉が足りないだけなので問題ない。たぶん。
トムはがしがしと後ろ頭を掻いて、「あー…」と声を挙げた。
「そんときは俺が責任もって処分するよ。それで学校を退学になるってことになったとしても、大介や他の仲間を危ない目に遭わせるような真似はしねぇよ」
ふむ、と私は頷いた。
「つまり、ソレンティアを辞める気は無いということだね」
「そのときが来るまでな」
トムの言葉に大介がホッと安堵の息を吐いた。私がじ、とトムを見ていると、彼は苦笑するように笑って言ったのだ。「約束があるんだよ」
「遅かったな、待ちくたびれて買ってきてしまったぞ」
宿屋の部屋に戻るとキールがスティック型のケーキを銜えながら不機嫌そうな面持ちで迎えた。
大介の頼まれていた品とはこれだ。
「すまんキール、一応こっちも買って来ちまったから一緒に食べてくれ」
大介が謝りつつ、買い物袋から取り出したスティックケーキを一本、キールの口に突っ込んだ。え、突っ込んじゃうの?そこ突っ込んじゃうの??
ふがふがとキールが、しかし満足気な様子で2本のケーキを食べている様を曲芸か何かを見る面持ちで眺めていると、当の本人と目が合った。
もくもくもく、と一気にケーキを食べると、更に自分が持っていた袋から一本取り出して、
「なんだ、ちびすけも食べたいのか?」
「いや、あんたが面白過ぎて」
「なんだそれは」
不可解、とばかりの顔をされたが、ほれ、とケーキを一欠片ちぎってくれた。イイ人だ。
「さっきの奴らは警察に任せるとして、本題はあの商人をどうするかってところだよな」
「なぁ、さっきの奴らみたいにあの商人の居場所とか分からないのか?」
どさどさ、とトムはベッドに、大介は椅子を引っ張ってきて座って話し出した。
「なんだ、何の話だ」とキールがもう一つの椅子を引っ張ってきて話しに加わり、「お茶要る人ー」とカイトが場の雰囲気を察してお茶の用意を始めた。
「出来るとも。しかし場所を割り出してどうするのかね?先ほどの奴らがあの商人と繋がっているとどうやって証明する?」
キールに一通りの説明をしてから、私は先ほどの大介の質問に答えて、更に問い返した。
私の問いに、3人は黙り込む。
「それに、そもそも先ほどの奴らは商人とは別のところからもおそらく依頼を受けている」
抱えたケーキをもさもさと食べながら私が言うと、今日何度目かのトムと大介の驚いた視線がこちらを向いた。
そのうちトムの方を、私は見返した。
「彼らの情報を見て何か気付かなかったかね?」
どんっ 「っ?!」
唐突に、何か巨大なものが(それこそ荷馬車の時の巨躯の狼のようなものが)宿屋に衝突したかのような衝撃が走った。
「出ろ!」トムの声にその場にいた全員が手近な荷物をひっつかんだ。キールが長い脚で窓を蹴破り、カイトと荷物を抱えて飛び降りる。どんだけ力持ちなんだ。
その後に大介が飛び降り、続いて俺が引っ掴んでいるトムが飛び降りた。
外には既に避難してきた人たちがおり、宿屋を見上げている。私たちも振り返り、その惨状を見た。
夜空が焦がされている。宿屋が燃えているのだ。
あの衝撃音は衝突音ではなくて爆発音だったのだ。
ふと、微かな振動に私は気付いた。驚いてトムを見ると、彼は燃えている宿屋を見上げて茫然としている。宿屋を見ているようで、全く見ていない。
あぁ、と私は察した。
そして、トムの目を覆うように彼の頭を横手から抱き抱えた。
「よく聞きたまえ、ブラックマン。
これは"君の家では無い"よ」
ちょうど私の頭の下にあるトムの耳元に向かって静かに告げた。
「ゆっくり深呼吸をして、落ち着いたら180度回転して真っ直ぐ進みたまえ。
大介がいる」
トムは私の言葉通り1、2回深呼吸をして、くるりと宿屋に背を向けて歩き出した。その先にいた心配げな顔の大介の胸にぽすんと拳を叩きつけると、「だいじょうぶ」と笑った。
私は一度トムの肩を降りた。トムを大介に任せて、向かうはキールのところだ。
「居場所がばれていたようだな」
「うむ」
しゃがみ込んで私を摘み上げたキールは、心得たように肩に乗せた。そういえばさっきのケーキは食べかけで置いてきてしまったとこんな状況で気付く。
キールの双眸は燃え盛る宿屋ではなく、その周りにいる人々に向けられていた。犯人がいるならば、宿屋では無くてこちらを見ているはずだ。
この爆発が偶然などとは考えない。
「しかしこうして文字通り炙りだしたというのに、一切追撃をしてこないというのはどういうことなのだ?」
「演出なのだろう、この火事は」
私はブラックマンを見やった。実に効果的な、自分の目的と正体とをいっぺんに示すには効果的な演出だ。
犯人は隠れる気など無いようだ。
トムの過去を知り、追跡に長けた追手を操り、商人と暗いつながりのある人物。
つまり、トムと同じ世界に生きる者の仕業だ。
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